墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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内裏塚古墳 千葉県匝瑳市野手

芝山町立芝山古墳・はにわ博物館の近くには国史跡の殿塚・姫塚古墳だけでなく、南隣りの山武市にも姿形をよく残す前方後円墳朝日ノ岡古墳や大堤権現塚古墳などがあって古墳ファンには見どころが多い。

が、今回は未訪問が多かった匝瑳市・旭市周辺の古墳を巡った。

最初に向かったのは海辺に近い平地にピンが立つ内裏塚(下)古墳で、はにわ博物館からは車で30分程。

 

多胡町の南端をかすめ、横芝光町を抜けて匝瑳市へ。

車窓には田植えをしたばかりの水田が広がります。 

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台地縁の緑もきれいです。水田との比高差30m位でしょうか。

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水田の標高は5m弱。古墳時代には海が広がっていたのでは。

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内裏塚下古墳のピンが立っている場所は、そんな平地の真っただ中の小さな社叢でした。

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南側から見た”社叢”

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壬申の乱で敗れた大友皇子の妃が、海路逃れてきたもののこの付近で亡くなったとのこと。

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野栄町埋蔵文化財包蔵地
内裏塚古墳
内裏塚上古墳 野栄町野手字内裏塚
内裏塚下古墳 野栄町野手字内裏向
「壬申の乱」で大友皇子(弘文天皇)は、叔父大海人皇子(天武天皇)軍に近江で敗れ討死したと伝えられています。
大友皇子妃であった耳面刀自(かんなみ)妃は、従者18名と共に難を逃れて淀川を下り、海路東国に向かいました。二十歳の皇姫は疲労から病にかかり、この地に漂着したそうです。
熱田重郎兵衛、忠兵衛などの里人が皇妃を懇に世話しましたが、その甲斐もなく白鳳元年(672)9月23日亡くなられ、柩をこの地に葬りました。「神山」「神林」と崇敬していた従者の頭中臣英勝(なかとみのあかつ)は、椿の海付近に移住しお墓を守って生活していましたが、その子孫が嘉保元年(1094)遺骨を大塚原(旭市)に移葬しました。
明治15年、八日市場警察署長広田彬氏は、塚の荒廃した状況をなげき、私財を投じて由来の碑を建て祀祭を行ったそうです。
その後、県営圃場整備事業により、塚の一部が排水路用地となったため移設し、昭和41年記念碑が建立されました。
旭市の内裏神社では元徳2年(1329)以来33年毎に妃の霊を慰めるため内裏塚を訪れています。
平成10年3月30日 野栄町教育委員会

 

ルート図もあってリアル。

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墳丘は見当たりませんでしたが石碑が。

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社叢の背後の東側。ここから25㎞で犬吠埼。 

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そこから250mほど北西は「内裏塚上古墳(内裏神社上社)」があります。

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参道は草が伸びていましたが、風が通って爽やかな境内でした。

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