墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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穴八幡古墳 埼玉県比企郡小川町増尾

つきのわ駅からは2駅先の小川町駅へ。

駅から徒歩20分ほどの穴八幡古墳を訪ねた。 

 

市街地を抜け、坂を上がると八幡神社の参道に出る。

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葉桜でしたが片側からのトンネル状。

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突き当りの八幡神社に参拝。 

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神社の南側に目指す穴八幡古墳がありました。

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真横(東側)から。

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南側の切通し道に入口階段がありました。

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その説明板。

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県指定史跡 穴八幡古墳
小川町大字大塚と増尾の間に位置する八幡台地のほぼ頂部に立地する穴八幡古墳は、埼玉県内でも最大級の規模を持つ方墳です。首長を納めた横穴式石室は南に開口し、内部には下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩を利用しています。また、この位置が小川の盆地を一望に見渡せることなどから、古墳の被葬者はこの盆地を治めた有力人物であったのかも知れません。
新編武蔵風土記稿によれば、この古墳は寛文(1661~1673)の頃、切りくずして陸田にしようとしたところ、石室が現われたので中止したことが記されています。
なお文政12年(1829)島田氏が八幡神社を勧請したので穴八幡と呼ばれるようになり、遠く江戸吉原のおいらん衆が奉納した提灯や手ぬぐいが残っていました。
平成10年3月 埼玉県・小川町教育委員会

 

さらに進むともう少し詳しい説明板。

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埼玉県指定史跡 穴八幡古墳
小川町大字増尾字岩穴63-1外
昭和34年3月20日指定
平成3年3月15日追加指定
当古墳は、巨大な横穴式石室を備える古墳として、昭和34年に埼玉県指定史跡に指定されました。古墳の形は、当時円墳と考えられていましたが、昭和63年の発掘調査や測量調査により、周囲に二重の周堀を備えた方墳であることが確認されました。
古墳は、墳丘の高さ約5.6m、一辺の長さ32mを測り、周囲の堀は内堀が幅5.7m、外堀が3.7~4.7m、外堀の一辺の長さ61.4mを測る、県内最大級の方墳です。
石室は、緑石片岩などの大きな一枚板を組み合わせ、内部は奥室と前室から構成され、全長8.2mを測ります。
当古墳の造られた時期は、埴輪が出土しないことや前庭部から出土した須恵器から古墳時代終末期、7世紀後半と考えられ、小川盆地の古代文化を考えるうえで非常に貴重な存在です。
平成5年3月25日 埼玉県教育委員会 小川町教育委員会

 

石室実測図部分を。

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南正面の姿。

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「埼玉の古墳めぐり」 によれば、入口両側の大きな板石は江戸時代頃に置かれたもののようであるとのこと。

埼玉の古墳めぐり

埼玉の古墳めぐり

  • 作者:宮川 進
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

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鍵のかかった格子越しに室内を。

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格子の間にレンズを入れて。

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さらにズームで。

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前室の側壁は緑石片岩が2枚。

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羨道部(?)の側壁は1枚岩で、丸い穴がいくつもありました。

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入口脇の板石。ほんとうに板のような薄さ。

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石室前に、もうひとつ説明板がありました。

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穴八幡古墳
この穴八幡古墳は、二重の周溝をもつ方墳です。史跡整備のための発掘調査で、特に西側部分において、その全容が確認されました。
溝の北東・北西及び南東のコーナーが検出されました。その結果、この古墳の規模は、北側辺は25.6m、西側辺は31.0mを測ります。溝には北側で4.0m、西側で6.0mの底幅がありました。外側溝は西側中途で消失していましたが、これが作為的なものか、自然消滅かは確認できませんでした。南東コーナーが確認できたことで、石室の前面西よりに溝の掘りくぼみのない、通路のあったことが確定しました。

 

全体図のアップ。

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謎は謎として提示されていました。

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穴八幡古墳の謎
はてな1
この古墳は二重の周溝をもつ古墳ですが、どうしてこのような形が選ばれたのでしょうか。当時の前方後円墳とはどのように異なるのでしょうか。
はてな2
大きな緑泥石片岩を組み合わせた横穴式石室は県内でも特殊な例です。下里にあったと思われる採掘場からどのように運んできて、どのように造られたのでしょうか。
はてな3
石室の中には、現在の小川周辺では採れない白い玉石が敷き詰められていました。なぜ、わざわざそのような石を敷き詰めたのでしょうか。
はてな4
古墳には東海地方で作られた長頸壺が備えられていました。どうしてその壺がここに備えられたのでしょうか。そしてどのように流通してきたのでしょうか。
はてな5
最後にこの古墳は誰の墓なのでしょうか。
その他にも、北に山・南に川・東西に尾根といった古墳の立地は中国の風水思想を一致する謎であるとか、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」ち「秩父日記」とでは石室の様子が違っています。いつごろ現在のように開いたのでしょう。
現在の考古学や歴史学である程度わかるものもありますが、まったくわからないものもあります。どうぞ皆さんも考えてみてください。
平成10年3月 小川町教育委員会

 

前出の「埼玉の古墳めぐり」によれば、明治13年(1880)には石室内に箱式石棺が発見され、金環3、頭椎太刀(かぶつちのたち)2、圭頭太刀1、鉄製兜1、蓋及脚付銅椀1など、小見真観寺古墳の後円部石室に匹敵するような豪華な副葬品が見つかっているそうです。

 

入口を横から。

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墳丘に登らせていただきました。

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墳頂の大木。

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墳頂から開口部方向の素敵な眺め。

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西側には2重の周溝(外側は途中まで)

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その周溝(内側)に入って。

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外側の周溝。

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そこから振り返った南側。広葉樹と針葉樹の葉が織りなす緑のパッチワークが綺麗でした。

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パノラマで。

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墳丘を西側からパノラマで。

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墳丘北側の周溝。

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道路へ降りて南側から。石垣の部分は切通しです。

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そのあたりから南西側。奥は武甲山でしょうか。

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