12月上旬の日曜日、午前10時に曳舟駅に集合して2時間の街歩きツアー(有料)に参加した。
TABICAの主催によるもので昨年下記のツアーに参加後にたびたび案内メールが入るようになっていました。
今回のガイド、東京人世さんは東京の街に非常にお詳しく、今回のエリアも隅々まで歩かれていて、興味深い物件を幾つも案内していただけました。
https://tabica.jp/travels/24923
曳舟駅西口から南に歩き始めて最初のポイント。
上記の小道を入って振り返って。
その先の、酒屋さん跡。
店先の自販機は、おつまみ。
曲がりくねる道があると思えば、ズドンと一直線の道も。
魅力的な喫茶店が残っています。角にある̚カド。
向島料亭の美家古の前を通って。
奥行が深い建物。お座敷が沢山あるのでしょう。
その並びには豪華な山門の弘福寺。
少し入ったところに朽ちかけた建物。
青銅製の戸袋には鯉の浮彫が。かつては料亭だったのでしょうか。
こちらも崩れかけた木造家。
ズームすると、床の間や凝った天井があるのがわかりましたが…
そこから鳩の街通りへ。北から南へ、太陽に向かって歩きました。
通り沿いには昭和が香る建物が残っていました。
タイルの色は下辺だけブルー。
玄関前の細い丸柱。
居心地良さそうな喫茶店こぐま。
こぐまの並びの看板建築。
上記の位置から右手(南側)にも。
少し裏手に入ったところ。
付け柱の円柱には鮮やかなブルーのタイル、
ここも外壁タイルの下側で色合いが変えていました。
上記の左端に移っていた説明板。吉川英治の旧居がこのあたりにあったとのこと。
吉川英治旧居跡
明示25年(1892)横浜生まれ。父は旧小田原藩士。県庁勤務の後、牧場経営に失敗し、家運が傾いたため、小学校を中退。職を転々としながら、朝から晩まで働き通した。
18歳の時、上京。本所菊川町(立川4丁目)のラセン釘工場に住み込み、夜は、本所林町(菊川1丁目)の府立夜間職工学校で、工芸図案を学ぶ。その後、浅草三筋町にある輸出用金属象嵌の下絵描きの徒弟となった。
貧しさも あまりの果ては 笑ひ合ひ(吉川雉子郎の名で発表した川柳)
大正6年(1917)、25歳の時、下谷の花街で知り合った赤沢やす、の寺島村1820(東向島1丁目)のこの辺りの家で同棲を始め、母たちを近くの寺島村1120(東向島3丁目)の借家に呼んだといわれている。
本格的な作家活動は、30歳で「親鸞記」を初めて新聞連載した時に始まる。以後、創刊された「キング」に「剣難女難」、大阪毎日新聞に「鳴門秘帖」を連載し、国民的作家としての地位を不動のものにした。
さらに別の場所でも見事なタイル外壁。
アールの付いた瓦軒も。
タイルはカラフルで、やはり下は別の色。丁寧に補修されているようでした。
ガイドさんによれば、外壁のタイルや円柱は、花街の建物の特徴とのことでした。
艶っぽい色とロゴの鈴木荘。
井戸のある広場も。
そこに向島の歴史散策案内地図がありました。現在地はその北端ですが、この後はさらに北東の玉ノ井へ向かいました。
向島 歴史散策案内板
今もなお都会の喧騒を忘れさせてくれる向島界隈。遠ざかる明治、大正、昭和に思いを馳せ、まち歩きの達人、荷風を倣って探索を楽しんでみてはいかがだろうか。幸田露伴、森鴎外、堀辰雄、佐多稲子など、多くの文人が愛し、暮らした街、その足跡をたどっているうちに、きっと新たな発見に出会えます。