前回のつづき。
一旦宿に戻って家族と合流し、再び同じ路線を辿って出町柳駅へ。賀茂大橋を渡って南側の住宅街に回り込むと北村美術館がある(赤レンガの建物)
その南隣に、特別公開期間中の四君子苑の門がありました。
ここを知ったきっかけは、雑誌「CASA BRUTUS」の特集。
杉本博司氏の江之浦測候所は以前に訪ねましたが、その氏が「江之浦測候所の唯一無二のライバル」と崇めているとのことで、ぜひ体験しなくてはと思った次第。
上記の右頁の解説。
四君子苑
1944年竣工。施工:北村捨次郎。幼少期から茶道に親しみ、美術品収集を通して審美眼に磨きをかけた昭和の数寄者、北村謹次郎の旧邸。建築は1940年から1944年という戦中。この時代だからこそ手に入れられた銘木を存分に使い、京都数寄屋建築の名棟梁・北村捨次郎と共に技術の粋を結集して完成させた。後に進駐軍によって接収された母屋は吉田五十八の設計で1963年に建て替えられ、庭は作庭家・佐野越守により改修されている。鴨川の河原まで続く庭園には嘉禎3年(1237)の刻印がある日本最古の年銘入り石燈籠や八角石燈籠など重要文化財3点を含む約60もの石造美術品が配されながらも、折々に咲く花や清らかな水の流れと相まって調和と保つ。(後略)
山林王だった北村謹次郎と数寄屋棟梁の北村捨次郎は、同姓ですが親戚等ではなかったと現地で伺いました。
銘木だけでなく何気なく配された石が、来歴のある”美術品”。
上記中段の右端は沓脱石ですが、もとは古墳の石棺の蓋石!
四君子苑の公開は春と秋に、それぞれ一週間程度。今回の旅程はこの期間に合わせました。
上記サイトに掲示されている、建物と庭の平面図。
http://www.kitamura-museum.com/img/shikunshien/map.pdf
四君子苑は撮影不可ですが母屋玄関までのアプローチは、隣の北村美術館のエントランスから樹木越しに写すことができます。
吉田五十八設計による母屋は美術館建物と連結していました。
グーグルアースで見ると狭そうですが、 その場では非常に奥深い広がりを感じました。
外の廊下でつながる、北村捨次郎が手掛けた旧邸と、吉田五十八の手になる新館とは、建てられた年には20年ほどしか違いがないものの、対照的な建築空間を味わえます。
が、どちらの建物でも、室内と外の庭や景色との強い一体感が得られるところは共通しているように感じられました。
春にも訪ねてみたいです。
こちらのサイトには、撮影禁止となる前に訪ねられた際の内部の様子が紹介されています。