墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

古宮古墳 大分県大分市季の坂

大分駅から西南西に1.8㎞、徒歩30分圏内に立地する古宮古墳。

 

駐車場完備。

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駐車場からはつづら折りのスロープか、こちらの階段を上っていく(左端中央が駐車場)

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こちらがスロープ。

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一番上には大きな表示板。 

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展望広場もあるが、まずは古墳へ。 

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と、その先は急な下り階段。 

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斜面の途中に墳丘はあった。 

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ここも陶製の説明板。 

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国指定史跡 古宮(ふるみや)古墳
指定年月日:昭和58年(1983)5月11日
所在地:大分市大字三芳字宮畑
管理団体:大分市
史跡の概要
宮古墳は、丘陵の南側斜面にある南北約12.5m、東西約12mの方墳です。巨大な凝灰岩をくりぬいて造った横口構造の石棺式石室とよばれる、7世紀中頃前後に畿内の中級豪族のあいだで流行した石室が特徴で、九州では他に例がありません。
このような特徴から、被葬者は大和政権と深くかかわり、672年の人心の乱に活躍したことが「日本書紀」に記される大分君恵尺(おおいたのきみえさか)・稚臣(わかみ)という2人の豪族のうち、特に恵尺が有力な候補者と考えられています。
なお、古宮古墳のある場所は、南側に川があり背後に山を背負うという風水の考え方(風水思想)に合っており、これに基づいて造られたのではないかと考えられています。
・「日本書紀」に記された恵尺
(673年)大分君恵尺将に死なんとす。(天武)天皇覆いに驚きして詔して曰く、汝恵尺、私に背き公に向き、身命を惜しまず、遂雄しき心を以て(壬申の乱で)大役を労す。
…故に死すといえども子孫と厚く賞せん。

 

断面図部分のアップ。 

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開口部正面から。

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例によって柵の内側にカメラを入れて。 

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フラッシュで。

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組み合わせ式や積み上げ式ではなく、刳り抜き式の石棺だった。 

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亀塚古墳に併設された海部古墳資料館にあった、古宮古墳の10分の1模型。

宮古墳石室模型
国指定史跡 縮尺1:10
九州唯一の石棺式石室墳である。縦1.77m、横1.65m、長さ約2.5mの直方体の凝灰岩をくりぬいて、奥行2.16m、幅81㎝
、高さ88㎝の石室を造り出している。入口部分には閉塞石をはめ込むための仕口があり、天井部はやや蒲鉾形に丸みをつけ、東壁との境は幅1㎝ほどの凹線が鴨居風に入る。石室前には、同じ凝灰岩を整形して各2枚の側壁を並べて天井石を置いた羨道がとりつく。 

 

開口部から南側。正面の丘上、斜面際の鉄塔下に丸山古墳があるはず(だが時間の関係で次の機会に…)

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元来た道を上り返して展望広場へ行くと、展望は全く無かった。 

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その「広場」には陶板の「おおいた史跡マップ」が。 

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園路の途中から望んだ北東側。 

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大分駅方向には沢山のマンションが。

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当古墳の丘のすぐ隣にも高層マンションがあった。

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宮古墳は都会の古墳でした。