国指定史跡・横瀬古墳の姿は、志布志湾沿岸を結ぶ国道448号からも見えていた。
枝道を下りて水田越しに右側面を。
左に木々が載る前方部、右が後円部。
墳丘長134mは唐仁大塚154mに次ぐ規模だが、前方後円の形がしっかりと残る。
気分は古代。
墳丘の左側面(西側)に沿って道がある。後円部先端(北)側から。
そこから左(東)に目を転じて。南北に延びる微高地上に国道が通る(木々の背後)
同じ位置から右に振って墳丘の西側を。中央の建物は保育園でその先は微高地。
横瀬古墳の立地は志布志湾岸の古砂丘上になるが、最高所ではなく微かな谷地形の中央にあるのが興味深かった。(標高は7m、現在の海岸線からは1.3㎞)
後円部裾の説明板がある。その後ろには石碑も立つ。
詳細な解説。
国指定史跡 横瀬古墳 昭和18年9月18日指定
古墳時代中期(5世紀半ば)に築造された大型前方後円墳。
鹿児島県内では、東串良町の唐仁大塚古墳に次いで2番目の規模です。横瀬古墳の被葬者が活躍していた5世紀半ばに限っては九州最大で西日本屈指の前方後円墳に位置付けられています。
明治35年に竪穴式石室の一部分が盗掘の被害に遭った際、石室内は朱塗であり、腐食した直刀・勾玉・甲冑などがあったことが伝えられています。
昭和52・53年の鹿児島県教育委員会が行った発掘調査で周溝の存在が明らかになり、さらに平成22・23年に大崎町教育委員会が行った発掘調査で周溝の外側を廻る外溝が確認され、二重周溝(内溝と外溝)を備えた古墳であることがわかりました。古墳及び周溝の発掘調査で採取された遺物として、土師器の甕形土器片、大阪府堺市南部一帯に広がる陶邑窯産須恵器、円筒埴輪、形象埴輪などがあります。
ヤマト政権と深いつながりを持っており、大陸~南西諸島~近畿地方を結ぶ広域交通の拠点を掌握していた西日本を代表する首長の墓と推測されています。南九州では、台地の縁辺部に立地する古墳が多い中、横瀬古墳は低地にある砂丘帯を利用して造られています。
古墳の南北は砂丘が連なり、東西は緩やかに低く傾斜しています。
外溝は古墳の領域を外側を区画するためのもので、砂丘が連なる墳丘の南側、北側のみ造られています。東側・西側は自然の湿地を利用して古墳の領域を区画していると考えられます。墳長約140m。ただし指定範囲は128m。
前方部高さ8.45m、後円部高さ9.12m、内溝幅11.18m、内溝深さ約1m(『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書』29・S59 の測量図より。
外溝幅3~4m、外溝深さ約1m、周庭帯幅15~20m(平成22・23年度の大崎町教育委員会による発掘調査報告書)
周溝を含めると非常に大きな規模になる。
後円部に上がらせていただいて、前方部方向を。
前方部への斜面が見える位置から。
東側の側面を。
くびれ部のあたりから東側を望む。
前方部へ移動して後円部を。
前方部上にはツバキなどが繁っていた。
前方部の先端側。
そこから振り返った後円部方向。
発掘調査では円筒埴輪も出土していて、大崎町中央公民館郷土資料展示室で見られるようだ。Wikipediaの横瀬古墳の項に写真があった。
また、調べていたら、横瀬古墳・唐仁古墳群・塚崎古墳でイメージキャラクターがつくられ、最近まで名称募集されていたことを知った。横瀬古墳は女の子イメージだが、なんという名前になるか楽しみ。
国道から横瀬古墳沿いの道への入口に、気になる煉瓦建物があった。
新平酒造株式会社という焼酎メーカーだった。
煉瓦建物には人の気配が無かったので事務所の方へ行ってみた。建物裏側には重厚な扉。
途中で工場の方に出会って、案内いただけた。
最初に見た、駐車場側の正面から入る。
見学施設になっていて、試飲コーナーも。
車だったので試飲はできなかったが、とてもいい香りだった。 古墳の目と鼻の先で造られた焼酎。水は2㎞先から引いてきているのだそう。
金計佐(きんげさ)を購入して帰宅後に、横瀬古墳を想いながらいただきました。大変おいしゅうございました。