前回の小丸山古墳からは、南西に11㎞円山川上流を遡った谷合にある船之宮(ふなのみや:船宮)古墳へ。
さらに円山川を10㎞南へ向かうと日本海・瀬戸内海の分水嶺があって、越えた先には姫路へ流れる市川の流れが。
今もJR播但線が通りますが、古代からの幹線道があったと思われます。
新たに国道ができて旧道となった県道70号(十二所澤線)のすぐ脇に、墳丘があります。
前方部左裾に、「桑市」のバス停。
バス停の横の説明板。
県指定文化財 船之宮古墳
昭和36年8月12日指定
この古墳は、全長76mの前方後円墳で、後円部径33m、同高約6mであり、前方部には社殿が建てられて若干変形を受けている。後円部側および西側くびれ部にかけて一部周濠が残っているが東側は現在道路によって不明となっている。前方部は若干発達した形態を示しているがなお、古式な様相を示している。
埋葬主体については不明である。遺物等も詳細が知られていない。
葺石はあるが、埴輪については不明である。
本墳は但馬第二の規模を示す古墳で、その立地および周濠から、但馬における古墳時代中期の代表的な古墳と考えられる。
昭和49年10月 兵庫県教育委員会
昭和末期の調査前の情報なので情報が古いです。
前方部先端側を一瞥して。
前方部左裾の”参道”を上がります。
左手(東側)には播但線、その向こうの円山川までは200mほど。
前方部上の八幡神社に参拝して振り返って。
後円部墳頂は木々に囲まれていました。
後円部先端方向。
後円部から振り返った前方部方向。
くびれ部から西側には鳥居のある参道。
鳥居の脇の説明板は平成になってのもの。
県指定文化財 船之宮古墳
昭和36年8月23日指定
この古墳は円山川左岸の段丘の上に築造された5世紀後半の前方後円墳である。但馬地方で第2番目に大きい規模の畿内大王墓の形態を有する堂々たる古墳である。
昭和55年度、武庫川女子大学考古学研究会により測量調査が行われ、古墳の外形や現状の規模等が明らかにされた。その後、昭和62年度から平成元年度にかけて、周濠・墳丘の確認調査が行われた際、調査トレンチ(溝)から墳丘斜面の葺石・根石が築造当時のまま現れ、その測量から全長86m、前方部幅50m、後円部径47m、高さ約8mの規模を持ち、三段築成で、くびれ部に造り出しを持つ大型の前方後円墳であることが確認された。周濠は楯形であり、周濠外壁にも墳丘斜面と同様、葺石が施されていることが明らかにされた。なお、周濠の外側からも埴輪等が出土することから古墳周辺にも何等かの遺構のあるものと推定される。
古墳の前方部は北側にあり、上部は中世末期に建立された八幡宮によって変形され、東側は旧国道312号線の下に埋没している。西・南側には周濠の遺構が今も残っている。埋蔵主体は不明であるが、但馬の国造と伝える彦坐王(ひこいますみこ)の5世の孫である船穂足尼(ふなほそこね)であるとの伝承もあるが詳かではない。しかし、大和朝廷との何らかのかかわりのある国造級の豪族の墓であると思われる。
平成元年12月 朝来町教育委員会
”但馬古墳手帖にあった解説には、鼻と口の一部だけの牛形埴輪の写真が載っています(鼻輪も!)
船之宮古墳
墳丘の形状と規模:前方後円墳 全長約121m
埋葬施設の種類と規模:ともに不明
築造時期:5世紀後半
池田古墳に次ぐ規模をもつ前方後円墳で、池田古墳、茶すり山古墳に続く首長墓と考えられる。墳丘のほか、周濠の一部が残る。発掘調査は行われていないが、円筒埴輪や形象埴輪が採集されており、とくに牛形埴輪は全国でも数が少ないものである。牛形埴輪は牛の鼻と口の一部のみがみつかっており、鼻には鼻輪もつけられている。
墳丘の西側。前方部裾から右奥に後円部。周溝が残る側です。
鳥居の外側には橋がありました。
橋側から見たくびれ部。
後円部の周濠を。
後円部裾から振り返った前方部方向。
一回りして県道側を。手前側が後円部です。