前回までの唐仁古墳群の後は海岸線沿って北上し横瀬古墳を目指したが、 途中にあった”鷲塚古墳”の表示にも立ち寄った。
唐仁古墳群の北西4㎞、肝属川の支流の串良川沿いに岡崎古墳群もあるが、時間が足りなくなりそうだったので次の機会とした。
グーグルマップに従って集落の道を進むと、廃屋(?)の前に看板が立っていた。
一瞬、地下式横穴墓が見学できるのか、と期待したが、6年前に埋め戻されていた。
鷲塚地下式横穴墓(わしつかちかしきよこあなぼ)
町指定文化財(史跡)
昭和52年2月25日指定地下式横穴墓
地下式横穴墓は、古墳時代の南九州(北は宮崎県の西都・高鍋周辺、南は志布志湾沿岸、西はえびの盆地周辺)に見られる独特の形をした墓です。
地表から縦に穴を掘り(竪坑)、その底部付近から横方向に掘り進め、地下に空間(玄室)を造り、遺体を安置します。遺体の安置後に竪坑と玄室をつなぐ部分(羨道)を石、土のブロック(土塊)、木材などで塞ぎ、竪坑を埋め戻して造られます。玄室内には遺体とともに鉄製の矢じりや剣、銅鏡などを副葬することもあります。
鷲塚地下式横穴墓は、昭和45年10月30日町道拡幅工事中に、地域住民によって発見されました。考古学者の河口貞徳が発掘調査を行い、玄室内から出土した人骨や副葬品の刀子(小刀)から女性の墓であることがわかりました。
調査後に地下式横穴墓を屋根で覆い、見学のできる地下式横穴墓として保存されました。その後、昭和52年2月25日に町の指定文化財となりました。しかし長年の間に覆っていた屋根が腐食するとともに
地下式横穴墓も損傷が危惧されて平成26年3月に埋め戻されました。
地下式横穴墓は、群集して造られます。この周辺にはまだまだ発見されていない地下式横穴墓が存在している可能性があります。
志布志湾岸の地下式横穴墓や、主に5世紀代を中心に造営されます(鷲塚地下式横穴墓は調査当時7世紀頃を想定していましたが、時期の再検討が必要と考えられます)。この頃、各地で円墳や前方後円墳など土を盛り上げて造る「高塚墳」も造られます。本町では、横瀬古墳、神領古墳群、飯隈古墳群などが代表的です。神領古墳群、飯隈古墳群域にも多くの地下式横穴墓が点在しています。
一方で、岡別府の下堀遺跡のように高塚墳の無い地域にも地下式横穴墓群が発見されています。
地下式横穴墓を造る集団が高塚墳を造る集団とどのように関わっていたのかが、南九州の古墳時代の社会様相を知るうえで重要な鍵を握っているといえます。・玄室の広さは、幅2m14㎝、奥行き1m10cm、高さ60㎝
・床には5cm~10cm大の軽石が敷き詰められていました。
・遺体は頭を南東側に向けて安置されていました。出土した人骨は女性の頭蓋骨でした。現在、大崎町中央公民館郷土資料展示室に展示されています。
看板背後のコンクリで囲まれた部分の地下に存在するようだ。
わかりやすい模式図。
断面図。
埋め戻す前の写真。
集落内の道の様子。ここから右を向いた左側に鷲塚横穴墓の看板が立っている。
若干切り通されているが、そのように道が造られたことによって、鷲塚横穴墓が発見されたのだろう。
説明にあったように、地下式横穴墓は地上を見てもどこにあるかわからないので、周囲にまだまだ沢山眠っているのだろう。