「きききの吊り橋」を渡ると目の前に御所野(ごしょの)縄文博物館がある。
入館料一般300円。1階・2階に常設展示室。
国指定史跡・御所野遺跡は、世界文化遺産登録をめざしている「北海道・北東北の縄文遺跡群」のひとつでもあり、縄文時代中期後半(4000~4500年前)に営まれた集落跡。約500年間の定住が確認されているそう。
第1展示室のテーマは「土屋根住居の発見」
ガラスで覗ける床下には「焼失住居」の出土状況が見られる。
遺跡から出土した土器の展示や、各地の復元竪穴住居の紹介も。
1996年度に焼失住居遺構を調査した結果、屋根には土がのっていたことがわかったそうだ。
屋根に土がのっていた
焼けた竪穴建物跡をくわしく調査したところ、土屋根であったことがわかりました。壁際から床上に堆積していた黄褐色や褐色の土は、屋根にのせた土や周堤の土が崩れ落ちたものと考えられます。また、床上から見つかった炭化材は、土をかぶっていたために炭化した垂木などの建築部材と考えられます。
実際に土屋根復元建物を焼いて柱材の炭化状況を検証することも行われている。
建物を焼いてみた。
竪穴建物が土屋根であったことを検証するため、まず復元図をもとに、土屋根建物を実験的に復元しました。その後、1999年には、調査で出土した炭化材の建築部位を確認するために、復元した土屋根建物の焼失過程を観察しました。
実験の結果、土屋根建物は密閉性が高く、内部が酸欠状態となり、燃えにくいことから、焼けた土屋根の竪穴建物跡は、意図的に火をつけて燃やした可能性が高いことが明らかになりました。
土屋根は地理的にも(全国)も、時間的にも(縄文~平安期)も、実は大きく広がっていた。
焼けた竪穴建物跡の調査から土屋根建物であることが確認された例は、北海道から九州地方まで広がっています。また、土屋根建物は縄文時代だけではなく、弥生時代から古墳時代、さらには平安時代までつくられました。
御所野遺跡の土屋根竪穴住居については、以前に藤森照信氏の本で知って、訪ねたいと思っていた。
戦後に登呂遺跡が発掘され、住居が復元された際に茅葺が参考にされて全国に広まったが、御所野遺跡を例に、かなりが土屋根ではなかったかということが紹介されていた。
たいした防寒具もない縄文人が、茅葺屋根で寒さをしのげたとはとうてい思えないので、それだけでも土屋根の説得力はある。
第2展示は大きなスクリーンとプロジェクションマッピングまである「御所野縄文ワールド」
御所野遺跡の四季や生活が映像で流れる。
明るくなると、周囲の壁面の展示も見えるようになった。なかなか凝ったつくり。
当地で出土した土器がずらり。
狩りの道具、祈りの用具も。
石棒は、まつりの道具として。
土器のかけらに描かれた「羽付き縄文人」は御所野遺跡のシンボルで、頭に羽飾りをつけている。
キッズ向けサイトにも紹介があった。
https://jomon-japan.jp/kids/map/goshono/
配石遺構の立石とパネル解説。
そこは展望室にもなっていて、大きな窓から御所野遺跡を一望できた。
通路脇の展示では、赤色顔料が入っていた小型土器も。
最後の第3展示のテーマは「火とまつり」
一戸町内の別の遺跡、蒔前(まくまえ)遺跡・山井遺跡(いずれも縄文晩期)の出土品。
蒔前遺跡出土の「鼻曲り土面」は国の重要文化財。
顔の両端には紐通しの穴が空いている「仮面」
鼻が曲がっているのが不思議だが、同様の土面は岩手県北部から青森県東南部で5例見つかっているそうだ。
隣には同じく重文指定の皿型土器(蒔前遺跡)
こちらは底側だろうか。それにしても見事な意匠。
鎌倉彫りのような芸術性を感じました。
縁飾りのある鉢形土器も蒔前遺跡出土の重文。
山井遺跡からの土偶たち。
こちらは一戸町の椛ノ木(かばのき)遺跡出土の土偶(縄文後期)
愛称は「縄文ボイン」
立派! 右足の付け根と首にアスファルトが使われた跡があるそう。
こちらの壺形土器も蒔前遺跡から。
現代の作品といっても全く違和感のない完成度。
そもそも現代と比較すること自体がおこがましいのかも知れませんが…
午前9時の開館からあまり時間が経っていなかったので、カフェに人はいなかった。
そして、いよいよ縄文フィールドへ。