前回のつづき。
三内丸山遺跡は縄文時遊館に入館し、トンネルのような通路を抜けてフィールドに出る。この時はガイドツアーに参加できた。
https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/information/facility/facility-info/
正面にはピクニックエリア。ちょうど小学生の一行が班に分かれて昼食中だった。
縄文時遊館への出入口を振り返って。
そこから200mほど、左へ園路を進むと、復元建物が並ぶ広場に出る。
上記から左に目を移すと、巨大な櫓や大型住居が。
ガイドさんの案内に従って、初めにトレンチが見られる覆い屋の中へ。地層の中の土器がそのまま埋まっている生の現場。
その先に、竪穴住居が立ち並ぶ。
こちらは屋根が土で葺かれている。
掘立柱の建物「跡」も、復元展示されていた。
北東の隅には墓も。
大人の墓(土坑墓)
大人は地面に掘られた穴(土坑墓)に埋葬されました。土坑墓は道路の両側に向かい合うように列状に並んでいます。墓の中からは、副葬品として石器やヒスイ製のペンダントが出土した例もあります。
ガラス越しに実物を見学する。
ちなみに、平均寿命は30歳ほどだったようだ。
道の両脇に墓が並ぶエリアの先はムラの外。かつては青森湾へ降りていた。
墓のそばには高床建物。
貯蔵するものがあったのだろう。
そばには、ゴミ捨て場だった谷も。
その説明板。かつてのゴミは、今お宝。
北の谷(低湿地)
北の谷は、縄文時代前期(紀元前約3900~3300年)にはおもにゴミ捨て場として利用されていました。
水分が豊富なため、通常残らない動物や魚の骨、種子、漆器や木製品、編み物、寄生虫の卵などの有機質の遺物が良好な状態で出土しており、当時の環境や食生活がわかりました。また、土留め用に杭列が見つかっています。
ゴミや残土が積み重なって盛土状になっていた場所も。
北盛土
盛土は竪穴建物や穴などを掘った時の土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられており、小山のように盛り上がっています。ここでは発掘調査された当時のまま展示しています。一面に敷き詰められたような土器は縄文時代中期(紀元前約3000年)のものです。展示している部分はほんの一部ですが、盛土ではこのような状態で何層にも重なって広がっています。
覆い屋の下に発掘調査時の様子が保たれている。
近くの覆い屋には子どもの墓も。
その説明板。
子どもの墓
子どもの遺体は、土器に入れて埋葬しました。棺に使われた土器は、丸い穴があけられたり、口や底が壊されており、煮炊きに使用する土器とは区別されていました。中からはこぶし大の丸い石が出土した例もあります。
子どもの墓ばかりが集まる。
その後ろの立入禁止エリアでは、発掘調査が行われていた。
そして、今や著名な6本柱の櫓。
解説板がある。
大型掘立柱建物
この復元した大型掘立柱建物は、発掘調査の成果や柱穴の底の部分にかかっていた土圧の分析結果などから全体の大きさを推定したもので、柱間と同じ4.2m間隔で床を作り、3層の建物としています。屋根についてはさまざまな説があることから現在のところ復元していません。大型掘立柱建物跡
掘立柱建物は柱穴を掘り、柱を立て、床や屋根を支えています。ここからは直径約2m、深さ約2mの柱穴が3個ずつ2列並んで見つかりました。これらの間隔はすべて約4.2mで、規則正しく配置されていました。柱穴の中からは直径約1mのクリの木柱が見つかりました。縄文時代中期後半(紀元前約2600年)のものと考えられています。
オリジナルの柱穴は、隣の覆い屋の下に展示。
残っているクリ材。水を抜くホースが見えているが、地下水が豊富なことと柱の根元を焦がしていたことにより腐らないで残ったのだそう。
復元に使った木材もクリ。日本にはこの大きさはなく、ロシアのソチから持ってきたのだそう。
残った材の直径から高さを、重さ(土への圧)から桁材などがあったことを、根元の材の角度から内径があったことを割り出している、とガイドの方から伺った。
屋根や、桁梁による床があったか否かは議論になっている。
高い技術力があったことが、まざまざと感じられた。
ガイドツアーの最後は全長32mの大型住居。
内部の幅は10mほどあり、天井も高く広々としていた。
このような大型建物は集落の中央付近から見つかることが多く、集会所・共同作業所・共同住宅などの説があるとのこと。
大型建物の南側の施設(現在は収蔵庫?)が、おそらく以前に来た時の出土品展示施設だと思われる。