墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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椿井大塚山古墳(後編) 京都府木津川市山城町椿井三階

前回のつづき。

下半分が削りとられている後円部墳頂から前方部。

尾根筋の形状に合わせて平野部に前方部を向けて造成されていた。

もともとの地形を活かしつつ墳丘を前方後円形に整える古墳は、古墳時代前期によく見られるとのことだが、その手法は平地に一から土を盛るより難しいのではと思ってしまう。

 

ズームすると前方部の端のような石垣が見えたので、行ってみることに。

 

後円部北側に階段があったのでそこを下る。振り返っての墳丘。

まだ「山城町(今は木津川市)」となっている看板は、JR奈良線の車窓に向いている。

 

下まで降りて、この道が立入禁止であったことを知った。

上にはロープ等が無かったのでわかりませんでした。ごめんなさい。

 

線路をくぐって振り返ったところ。煉瓦の土台がしっかり機能していた。

 

そこから見上げた後円部。

 

そのまま進むと、道は前方部裾に沿ってカーブしているようだった。

 

振り返って見た墳丘。右が前方部で、その上には民家が数軒建っている。

 

墳頂から見えた石垣部分。

 

石垣に古墳順路の案内があった。

 

ちょうどこの場所が前方部の先端だったようだ。

 

石垣の上に石碑が。

 

上り道があって、そばまで行くことができた。ここは前方部上になる。

 

さきほどの案内地図には、今自分がいるこの場所(ここも前方部)にも数軒の建築物があるので、もとは正面に見える高さまで土が盛られていたのではないかと思われた。

 

左奥が後円部。75mという実際のサイズより、かなり大きく感じられた。

 

案内図にあった別の順路で再び後円部を目指した。

 

白壁・板塀の道は歩いていて気持ちよかった。

 

こちらのルートには煉瓦のトンネルもあった。

 

「ねじりまんぽ」ではないものの、丁寧に積まれたアーチが素晴らしい。

 

反対側から。イギリス積みの一列毎に合わせて、2種類の色のパターンを交互に使っていることもよくわかった。

 

そこからすぐに後円部の麓に出た。

 

左が後円部。奥から続く尾根を周溝のように切り開き、その土で前方部の形を整えたのだろう。

 

もとの道に戻って民家の細道を上狛駅へ戻る。

椿井大塚山古墳を訪れる際は、断然こちらのルートでの往復をお勧めします。

 

枝道を寄り道して踏み切りへ。

 

この先、右から左にカーブするところに椿井大塚山古墳がある。 

 

なんか気になって、後で調べたら「京都府・市町村共同統合型地理情報システム」を知り、ここも同じように横一文字に切り開かれた前方後円墳「天上山古墳」であることを知った。

http://g-kyoto.gis.pref.kyoto.lg.jp/g-kyoto/top/select.asp?dtp=671

名称:天上山古墳 所在:木津川市山城町椿井中垣内、西垣内 種別:古墳 時代:弥生後期~古墳前期、中世で、現状は「半壊」とあった。

 

奈良線は山裾に沿って通っているので、他にも鉄道敷設時に削られた古墳はあるようだ。

 

反対側から見た踏み切り。木津川が開いた平地部を見渡せる。

 

踏み切りそばの公園では子供たちの声が賑やかだった。

 

上狛駅の近くの踏み切りで奈良行きの普通電車が行ってしまった。

 

30分に一本を逃したので、駅周辺を少し歩いてみることに。

駅のすぐ近くにあった「京都茶農業協同組合」の建物。 

 

その向かいにあった小嶋織物の建物。

 

その一部は洋館だった。やわらかい曲面の壁が印象的。

後でサイトを見て、織物襖紙・織物壁紙で国内トップの企業だと知った。

http://www.kojima-orimono.com/who-we-are/

 

酒屋さんの看板には菊正宗・日本盛にサントリー。

 

路地もかなり風情がある。

 

壁の水車は、装飾か実用的保存場所か。

 

路地に見とれて次の電車も逃すところだった。 

 

空地で咲きほこっていた梅。

 

こちらは駅前にあった案内図。

 

改めて地図を見るとここは、北西以外をぐるり木津川が取り囲んだエリアであることがわかった。

木津川はここから20kmほど北へ下り桂川・宇治川と合流して淀川になり、南西に方向を変えて30kmほど下って大阪湾に注ぐ。

 

Wikipediaの椿井大塚山古墳の「被葬者」の項には下記の説も披露されていた。

当古墳は、淀川を遡り木津川の右岸にある。縄文時代からの漁具である銛、ヤス、釣針が揃っている。南西に船戸という地名がある。以上のことから当古墳の被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者ではなかったかと推測されている。

 

グーグルマップで木津川を見ると、ここから上流も気になったので辿ってみると・・・

初めは東に伊賀へ遡るが、途中の月ヶ瀬口から南へも上って名張川に。名張では南西から宇陀川が合流しているが、宇陀川は室生寺へ更に榛原(はいばら)まで辿ることができる。

榛原からは一つ峠を越えれば大和川が流れる長谷寺で、そこから箸墓古墳は8kmほど下流に位置する。

つまり、奈良盆地東側の山地をぐるりと50kmほど迂回して、纒向の地とも連絡している。

 

川が「道路」であった古代では、椿井大塚山古墳が築かれた地が正に「要衝」だったであろうことを改めて認識した。

 

上狛駅の跨線橋から北方向。