会津大塚山古墳は会津市街の東寄り、現在は東半分が大塚山霊園となっている独立丘の頂部にあった。
墳丘の裾近くまで墓地内の道が通じていて、見学はしやすい。
説明板の後ろが、もう墳丘1段目のテラス。
昭和時代に立てられた説明板。
国指定史跡 会津大塚山古墳
昭和47年5月26日指定
会津若松市一簣町
会津盆地の東側にある比高30mの独立丘陵上に造られた柄鏡式の前方後円墳で、全長約114mの規模を有する。
昭和39年、市史編纂のために発掘調査が実施され、主軸と直交する二つの割竹型木棺が検出された。その副葬品には三角縁二神二獣鏡、三葉環頭太刀、直弧文を有する靫など379点が出土した。
古墳の造営は4世紀末と推定され、東北地方では最古に属する古墳に位置づけられている。この古墳の被葬者は会津盆地を治めた首長と考えられ、その副葬品から当時すでに、畿内の大和朝廷と密接な関わりをもっていたことが推定される。
昭和63年2月 会津若松市教育委員会
そのとなりには細かい等高線の実測図。
昭和39年(1964)の発掘調査では、この後円部に二つの木棺が納められた埋葬施設がありました。遺体は残っていませんでしたが、両棺からは多数の優れた副葬品が出土しました。
まずは一段目を上がります。
テラス(斜面途中の平坦部)からの墳丘。目の前が前方部で奥に後円部。
前方部に上がって後円部を。全長114mは大きいです。
前方部端から、その先を望む。左奥に陪塚の2号墳があるはずですが…
そこから振り返って。前方部上に少し盛り上がったところがあります。
鞍部から後円部を。
後円部に向かって左側(東)斜面。
向かって右側(西)斜面。
後円部墳頂はちょっとした広場になっていました。
OBITOさんのサイトで、この石棺は他の古墳(石仏古墳)出土のものと知りました。
そのあたりから前方部側を振り返って。
さらに引いた位置から、広角で後円部墳頂を。
昭和39年(1964)の発掘調査で、この中央に二つの割竹型木棺が平行して検出されています。
下記の本によれば、どちらも盗掘などで後の時代に荒らされることがなく、埋葬の儀式のときに置かれた副葬品がほとんど動くことなく、当時の状態を保って発見されたのだそう。
大きい方の南側の棺跡は長さ9.3mもあり、わずかに残った奥歯破片のすりへり具合から埋葬者は老齢の男性と推測されているとのこと。
調査が行われる前は、東北には”古墳時代の古墳”はない(古墳が築かれるのは古墳時代が終了する7世紀以降)とされていた通説に対し、伊東博士はその特徴から古墳時代中期と主張されていたそうだが、調査結果で「前期」とわかり、東北地方の古墳時代の姿が書き換わるきっかけとなったそうだ。
本のタイトルは「東北古墳研究の原点」
著者の辻秀人氏は福島県立博物館在籍時・1986年の発掘調査をされた方で、その章の記述からはその時の苦労や感動もリアルに伝わってきました。
その県立博物館では、豊富な出土品には全長120㎝の大刀や漆塗りの靫、三角縁神獣鏡なども見ることができますが、この日は月曜日。再訪したい思います。
後円部墳頂の隅に建つ石碑。
後円部からは西方向にも市街地が透けて見え、盆地の中の独立丘であることが実感できました。
再び前方部から降りて、会津盆地を時計回りに、グーグルマップにピンの立つ古墳を巡りました。