墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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赤塚古墳 大分県宇佐市大字高森

大分県立歴史博物館を足早に見学させていただいた後は、さっそく周囲の川部・高森古墳群へ。

最初は博物館入口の正面にある赤塚古墳を訪ねた(奥の緑。手前の円形はロータリー)

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ロータリーの脇にあった宇佐風土記の丘(川部・高森古墳群)の案内図。 

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太古の昔、宇佐は九州屈指の聖域!
宇佐平野を南から北へ流れる駅館川(やっかんがわ)東岸の台地上に、3世紀後半から6世紀に造られた前方後円墳6基を含む、数多くの古墳からなる川部・高森古墳群があります。宇佐風土記の丘は、この川部・高森古墳群を、未来に継承していくために整備された史跡公園です。
この場所は、宇佐平野を見渡す丘にあり、長い間宇佐地域の有力者たちが眠る聖域でした。とくに、今からおよそ1700年前(3世紀後半)に造られた赤塚古墳は、前方後円墳であることから、宇佐地域が九州で最も早く、ヤマト政権との結びつきを深めたことを示しています。その後、6世紀中頃の鶴見古墳まで、6基の前方後円墳が造られています。
古代の日本では、地域の有力者が「国造(くにのみやっこ)」に任命されました。「古事記」には、宇佐国造として「宇沙都比古・宇沙都比売(うさつひこ・うさつひめ)」がみえます。宇佐国造が、川部・高森古墳群に葬られた可能性もあり、宇佐地域がヤマト政権にとって重要な場所であったことを示しています。だからこそ、7,8世紀に、仏教文化や八幡神の文化が宇佐の地において盛んになったのです。 

 

緑が目に鮮やかな墳丘へ。

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赤塚古墳は、なんと九州最古の前方後円墳だった(3世紀後半築造)

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赤塚古墳
赤塚古墳は3世紀後半に築造された宇佐地域の豪族のお墓で、前方後円墳としては九州で一番古いとされています。
大正10年(1921)に赤塚古墳の頂上が掘られ、人を埋葬していた石棺の中から、三角縁神獣鏡5面、碧玉製のアクセサリー(管玉)や鉄で造った刀が見つかっています。特に三角縁神獣鏡(京都国立博物館蔵)は古墳時代の初めのヤマト政権が地方の豪族に分け与えたものといわれており、赤塚古墳の鏡には京都府の椿井大塚山古墳から出土した鏡と同じ鋳型で造られた鏡が含まれていました。この銅鏡と、古墳の平面形が古墳時代の王権が存在した奈良、大阪にある前方後円墳と同じ形であることから、古墳に埋葬された豪族はヤマト政権との深い結びつきがあったことがわかります。
なお、周辺調査の結果、赤塚古墳は全長57.5mで周囲に8.5m~11mの溝(空壕)がめぐっていることがわかりました。ぬかって右側の高い部分が後円部で、埋葬された場所です。左側の低い部分は前方部といいます。

 

前方部の先端側。

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そこから墳丘に上がらせていただいて、前方部から後円部。

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前方部上の、ちょっと凹んだ箇所。 

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後円部へ移動して先端方向を。 

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振り返った前方部。奥が博物館。 

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くびれ部へ戻って前方部を。

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くびれ部から降りて、側面から。左が前方部、右が後円部。 

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前方部左裾側には、方形周溝墓群があった。

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その説明板。 方形周溝墓は弥生期のものかと思いきや、赤塚古墳と同時代のものとのことだった。

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赤塚方形周溝墓群
赤塚古墳の西側から南西部には、4~5世紀代にかけて順次築造された20基ほどの方形周溝墓がある。
方形周溝墓は古墳時代に近畿方面から伝わった墓制で、1辺5~10mの範囲を溝で囲み、その中央部に箱式石棺や土壙墓、礫積小石室などの埋葬施設を築いたものである。墳丘には低い盛土があったと推定される。
赤塚周辺の周溝墓群は5,6基ほどで1つのグループをつくり、これがいくつか集合して全体を構成している。宇佐平野を支配した首長の墓である赤塚古墳をめぐって広がるこれらの方形周溝墓群は、首長を支える階層の墓ともみなされ、古墳時代の支配機構と墳墓の構成を考えるうえで重要な意味をもっている。
これらは発掘調査で確認した遺構の原位置上に、造られた当時の形を想定して復原したものである。

 

墳丘に復元された箱式石棺。

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こちらも。

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振り返って隣のグループを。

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方形周溝墓墳丘から見た赤塚古墳。

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