墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

西久保八幡神社 東京都港区虎ノ門5丁目

前回のつづき。

 

我善坊谷の東側出口のすぐ南の台地先端に西久保八幡神社が鎮座する。

 

国道1号に面した鳥居の前は橋のようになっている。 

 

なかなか急な参道。愛宕山ほどではないが踊り場もあって登りやすい。

公式サイト・縁起 - 西久保八幡神社によれば、寛弘年中(1004~12)に源頼信が石清水八幡宮を勧請して霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建し、太田道灌の江戸城築城に際して(築城は長禄元年・1457)現在地に遷されたとのこと。

関ヶ原の戦いの際には秀忠の正室お江の方(崇源院)がここで戦勝祈願をして、その遺志により家光が社殿を寄進している。

 

車が通れる女坂もある。

 

女坂を上った先からの境内。

 

その近くに霊友会側に降りる石段もあった。

 

男坂(参道)の正面に神社拝殿。真後ろに霊友会建物。

 

参道を上って振り返ったところ。

 

灯籠の横の説明板には、ここで縄文時代の前期から長きにわたって人が活動した跡があることが書かれていた。

 東京都指定史跡 西久保八幡貝塚

所在地:港区虎ノ門5-10-14 八幡神社内
指定:昭和62年2月24日
港区虎ノ門飯倉交差点の北側にあたる台地の先端に西久保八幡神社があります。この社殿の裏手斜面に貝塚が形成されており、都心部に良好な状態で残る貝塚と言えます。
本貝塚が知られたのは昭和のはじめ頃に遡りますが、正式調査を経ぬまま今日にいたっていました。昭和57年度の都心部遺跡調査団による分布調査で存在が確認され、調査が行われました。
台地の縁辺から斜面にかけて、縄文時代後期前葉から後葉にかけての混土貝層が二枚発見されました。また、貝層上には縄文時代晩期の遺物包含層、貝層下には縄文時代前期の遺物包含層が確認されています。調査範囲が狭いにもかかわらず、貝層からは縄文時代後期中葉の完形の精製浅鉢土器や精製深鉢土器、粗製深鉢土器が数個体出土しており、E・S・モースが発掘した品川区大井の国指定史跡大森貝塚出土品(重要文化財)との比較資料として重要です。平成22年3月建設 東京都教育委員会

 

境内の北に、我善坊谷へ降りるワイルドな石段もあった。下から振り返って。

 

降りた左手にゲートで閉ざされた廃屋街路地があった。

 

 

国道1号へ出て、神谷町へ歩いていくと斜面沿いに立ち入り禁止の広い駐車場があった。

 

駐車場に面した建物は廃屋状態。

 

反対側へ回ってみても入口は閉ざされ(奥の金網の先)建物のあたりはジャングルのようだった。

 

その一画の北隣はヒューリック神谷町ビルやテレビ東京、城山ヒルズなどが並ぶオフィス街。

 

屋外エスカレーターの先にはる木立の道は30mほど、デンマーク大使館の隣を抜けて泉ガーデンの前まで続く。途中左側(南側)へは連絡路がない一本道だった。