前回のつづき。
旧李王家東京邸の西側の歩道を北へ歩いていくと円形の広場に出た。
それが水の広場だったようだ。さらに光の森へ向かう。
水の流れと木道があった。
ビオトープが整備されていた。 庭の名前の「光」はホタルのことか。
この鉄のアーチとロープは何のためのものだろう。
大きな木が立っていて一見よく出来た人工地盤かと思ったが、グーグルアースでは造成が入っていないようなので元の地形を活かしているようだ。
そのまま奥へと進んでいくと崖下へ降りる急な階段があった。
右手は清水谷公園。
途中に公園入口があったので入ってみた。公園の名のとおり、かつては清水が湧き出る谷だった場所。
傾斜地に設けられているので結構アップダウンもある。
小高くなっているところから見下ろすと大きな石碑があった。
140年近く前、木々が鬱蒼としていた谷の下の道で大久保利通が暗殺された。
解説板。
千代田区指定有形文化財(歴史資料)
「贈右大臣大久保公哀悼碑」 指定 平成4年4月
明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三、金井之恭、奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
平成5年3月 千代田区教育委員会
今でも鬱蒼としていて地形を把握しにくい。
公園の西側に沿う道は、北に上るのが紀尾井坂、南に下るのが清水谷坂になる。
清水谷坂を下り始めると、さきほど上から見た階段があった。右側は参議院議員の宿舎になる。
坂を下っていくと東京ガーデンテラス・紀尾井テラスの正面入口に出た。
つづく。