墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

石村洞古墳群(後編) 大韓民国ソウル特別市松坡区石村洞

前回のつづき。

公園内には積石塚より前の時代に造られた「土坑墓」の遺構もあった。

 

その説明板。

第2号 土壙墓
この土壙墓は本来、北に約10mはなれた場所から発見されたものをここに移転して再現したものである。土を掘ってその中に木棺を安置する土壙墓は、人類の歴史上、最も普遍的な形式の墓である。ここの古墳群からも積石塚より前の時代に造成されたものと考えられる様々な土壙墓群と大型の土壙墓が見つかっている。
この土壙墓は、東南東―西北西方向の長方形である。一切の施設のない東の床に、灰白色の短頚壺1つが置かれ、穴の中からは直径1.6cmの装飾のない金製耳飾1つが出土した。

 

日本でいえば弥生時代の方形周溝墓のようなものか。 金の耳飾りが副葬されたのなら被葬者は有力者だったのだろう。

3号土坑墓もあったようだが見逃した。 

 

土坑墓の近くには重厚な建物があったが、隣の石碑は読めなかった。

 

窓口のようだったので、かつては古墳公園が有料だったときがあったのか。

 

そこから振り返って。リッチな雰囲気の住宅街。

 

旧入場券売場(?)の後ろには、金網で囲まれた発掘調査中のエリアがあった。

 

金網のすき間から。気になる凸凹や土盛があった。

 

金網にはSEOUL BAEKJE MUSEUM(漢城百済博物館)が作成したパネルがいくつも掲げられていた。

これは現在の発掘エリアを示したものと思われる。「30年」まではわかったが・・・

 

これはこのエリアの発掘・整備の歴史か。

 

これは周辺の様子。1910年頃には300の墳丘が残っていた、と書いてあると想像する。

 

地図の部分のアップ。

 

こちらは4号墳の発掘の様子と思われる。

 

こちらは1986年の3号墳発掘の様子では。右の道路は現在は地下化されている。

 

これは3号墳の発掘の様子と思われる。左側の写真はひとつの墳丘に複数の埋葬穴が検出されたことを示しているのでは。

 

これも、数字の2015しか分からないが、金環などの出土物を解説しているのだろう。右側の写真の2重丸が繋がったような模様のある土器片(?)がとても気になった。

 

金網の脇に積まれているのは墳丘の積石か。

 

墳丘のように思われるが、 出土物を積み上げたもののようにも見えた。

 

検索していたら、コネストのサイトで中央日報の記事(2016/11/30)に行き当たった。

https://www.konest.com/contents/news_detail.html?id=29999

石村洞古墳群にて漢城百済博物館が2015年10月からはじめた試掘調査で、百済前期の40m四方の大型積石塚が新たに発見された、というニュース。

地表面を削り粘土を重ねて固めた上に、基壇を割石で積み上げる積石塚で、東西南北では10個以上の積石を1単位となっているという。

博物館責任調査員による、「このように多くの空間がつながっている積石塚が発見されたのは初めて」で、「馬韓の土塚や高句麗の積石塚でも似たような構造がみられる」とのコメントも興味深い。

東南部外郭からは土器壷、鉄製鎌、瓦、金製耳飾り、ガラス玉、動物の骨など約3千点が出土し、葬送儀礼の場だった可能性が大きいそうだ。

 

上記のサイトには日本語ガイドによる解説ツアーが紹介されていたので、次の機会があれば利用したい。

https://www.konest.com/tour/tour_detail.html?t_id=baekje_walking

 

 

金網の隣の木蔭では6人のアジュマが、くつろぎタイム。

 

 金網の南側には「内円外方形積石塚」があった。

 

その説明板。

内円外方形積石塚
A号積石塚、または内円外方形型積石塚ともいう。内側に直径11.4mの封土があり、外観は一辺の長さ16mの長方形の階段式積石塚だったと推定される。
新羅時代の墳墓に見られる護石のように、内側に円形に並んだ割石が墳墓の周りに配置されている。その外側の小石や四角く配列された周りの割石は、周辺の1・2・3・4号墳のように、階段式積石塚の形式が見られる。
1987年の発掘調査により、石棺3基と積石土坑墓2基の輪郭が内側の床から発見されたが、積石塚が破壊された後に造られた墓の可能性もあるので、内円外方形型積石塚との関連性は確実ではない。墓の周辺では様々な土器片、刀子、釘、カスガイなどの鉄器が多く出土したが、すべて撹乱層から発見されているので、関連遺物であるかどうか確定することはできない。

 

角の部分。

 

南側から。

 

さらに南側には第1号墳。

2基の墓がつながって並ぶ「双墓」

 

南東側から。

 

東側から。正面が2つの墓の間になる。散策路が近すぎて全体が入らなかった。

 

その説明板。

石村洞 第1号墳

第1号墳は、民家を建てるために壊されてしまったため、正確な構造を確認することは難しい。発掘調査により、南の墓の最下基壇が確認された。2基の墓が南北に並ぶ双墓である。北側の墓は3世紀中頃に、南側の墓は3世紀末~4世紀初めに造られたものと推定される。
南側の墓と北側の墓の基壇部は大きさがほぼ同一であり、双墓の間の空間を泥で埋め、西側に長く石を積んで双墓を繋いだ構造である。長さ20~30cmの割石で四面の壁を築き、床には約10cmの割石や礫石などを敷いた4つの石槨があった。最大の石槨墓が中央に、東西に長く置かれており、小さな3つの石槨を北側の壁に繋ぎ、東西に長く配置して並べている。墓の内部や周辺からは百済時代の土器や瓦、金製耳飾などが出土した。

 

そして公園の南端に第5号墳。

 

見慣れた形のきれいな円墳だが説明板によると、盛り土を石で覆い、さらに土を薄く覆う「葺石封土墳」なのだそう。

 

その説明板。

石村洞 第5号墳

第5号墳は直径17m、高さ3mの円形封土墓である。この古墳群の中で最も保存状態が良かったので、整備・復元の際、内部調査は行わず、封土の土を覆った方法だけを調査した。封土は土を均して高く盛り上げ、その上に川辺の石や荒石で覆って、さらにその上に薄く土で覆った独特な形式の墓である。このような形式の墓を葺石封土墳という。
漢江流域の代表的な葺石封土墳は第5号墳から東北数十メートル先に位置する可楽洞第1・2号墳である。1969年の発掘調査の結果、ひとつの墳墓の中にいくつかの木槨と甕棺が埋葬された墳丘であることが明らかになった。石村洞第5号墳も同様の構造と考えられる。
葺石封土墳の系統については、土着勢力の墓の様式に、葺石という高句麗の要素が加わったたものと考える見解と、封土を築き、地上に遺体の安置空間を設ける馬韓の伝統と考える見解に分かれている。

 

上記の説明で「第5号墳から東北数十メートル先に位置する可楽洞第1・2号墳」という表記がとても気になった。ちょうどブルーシートのあたりになってしまう。

その部分の中国語表記でも「東北方向数十米処」で、英語表記では下記のとおり。

Typical examples of earth mound tombs with stone roofs that have been found along the Hangang River are Tombs 1 and 2 in Garak-dong.

後で「可楽洞」で地図を見ると、ここから東~南東に2km離れていることがわかった。漢江とは逆方向になる。グーグルマップを拡大しても古墳が残っているのかどうかはわからなかった。Wikipediaの「石村洞古墳群」の”周辺”の項には「可楽洞古墳群ー百済時代の古墳群」と記されているのだが・・・。

→謎は次回のエントリを書いていて解けた(気がする)

 

5号墳は園内端の、少しばかり高くなっている部分に土盛りされていた。

 

そこから古墳公園を見渡して。北側の入口までは400m以上。

 

公園南端を出たところ。

 

路地をみると3,4階建ての頑丈な造りの家が並んでいた。

 

その先のバス通り。次に1.6km東にある別の古墳公園を目指した。