墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

下布田6号墳・下布田遺跡 東京都調布市布田

桜塚古墳群の2基を見た後は、飛田給駅から3駅乗って布田(ふだ)駅で下車。

 

線路は2012年に、調布駅や国領駅とともに地下化されている。かつての名残りが駅前にも見られた(調布駅方向)

 

今回の古墳も京王線の南側、多摩川との間の丘陵上にある。駅から徒歩10分。

 

途中で「椿地蔵前」という交差点を通った。

 

金網の外から一礼。

 

背後の「シロハナヤブツバキ」は市の天然記念物だそう。

 

通りの生垣も、椿が多く見られた。

 

バス通りから南方向。目指すはビニールハウスの向こう側。

 

回り込んでいくと公園があった。

 

膨らみはほとんどない。

 

詳しい解説板が。

市指定史跡・市指定有形文化財(考古資料)
下布田(しもふだ)6号墳(狐塚古墳)及び出土品
所在地:布田6丁目53番地1~4
指定:平成26年3月14日
下布田6号墳(狐塚古墳)は、多摩川沖積地を望む立川段丘縁辺部(府中崖線)に立地する下布田古墳群内にある古墳です。下布他古墳群は、5世紀前半から7世紀前半にかけて造営された古墳群で、これまでの調査で円墳17基が確認されています。このうち6号墳は、古墳群の最終段階、古墳時代終末期に当たる7世紀前半に築造された円墳で、地元では「狐塚」と呼ばれていました。昭和20年代前半には墳丘の大半を削平され、わずかな高まりを残すだけとなっていましたが、平成12年度、布田6丁目土地区画整理事業に伴い発掘調査が行われ、周溝と主体部が確認されました。
古墳の規模は、周溝の内径が約44m、周溝幅を含めると約60.5mを測り、終末期古墳としては多摩川流域で最大級の規模を誇ります。墳丘中央部には主体部として横穴式石室が残されています。石室は、奥壁に凝灰岩質砂岩切石を、側壁に河原石を積み上げ構築し、床面には河原石を敷き詰めています。切石と河原石を併用した石室は少なく、特異な構造です。石室内からは副葬品として、鉄製大刀3点、小刀1点、鍔2点、刀子1点、鉄鏃1点が出土しています。
下布田6号墳は、墳丘や石室の規模、副葬品の内容などから、古墳時代終末期における多摩川流域の盟主墳に位置付けられ、その被葬者は在地豪族の系譜を引く有力首長層と考えられます。調布市域のみならず、南関東地方の古墳時代終末期の様相を理解するうえで欠かすことのできない重要な古墳です。
平成27年3月27日 調布市教育委員会

 

周溝内径44mということは、径44mの円墳か。

そうであれば、狛江の経塚古墳や川越の浅間神社古墳より大きな墳丘ということになる。


下布田6号墳(狐塚古墳)は、平成30年に東京都の指定史跡となっている。

調布市のサイトには、下記の情報もあった。
・墳丘の大半は掘り崩されたのは、昭和19年頃の照空隊陣地設営による。

・横穴式石室は半地下式で奥壁へ向かってやや幅が広くなる羽子板状。羨門から奥壁まで8.7m、石室床面長6.8m、幅は奥壁側で2m・羨門側で1.45m。

・出土品の大刀3点のひとつは、全長94.5㎝(刀身部79㎝)の直刀で、刀身に径5mmほどの孔を穿った刃関孔(はまちこう)大刀。

・多摩川中流域にある狐塚古墳は古墳時代後期、多摩川流域の首長権が下流域から中流域に移った当初に築かれた大型円墳で、これ以降、中流域には大型古墳や上円下方墳(武蔵府中熊野神社古墳)といった特徴的な古墳が築造されるようになり、府中には国府が置かれるなど8世紀以降武蔵国の中心となっていった。

https://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1521591131441/index.html

 

南に向いている石室の上部あたり。 

 

そこから南方向。奥の木立は縄文期の下布田遺跡。

 

北側、ビニールハウスの向こうが先程のバス通り。

 

小公園内には土地区画整理の竣工記念碑があった。

 

南側から。説明板は「歴史の広場利用者へのお願い」

「将来はこの古墳を保存し活用のための整備を予定しております」との一文も記載。

 

南に見えていた下布田遺跡へも行ってみた。

 

標柱を見ると、なんと国指定史跡。

 

説明板もあった。

国指定史跡 下布田遺跡
昭和62年5月12日指定
下布田遺跡は、多摩川の沖積地をのぞむ、崖線にいとなまれた縄文文化時代終末ごろの遺跡である。
従来、現地では子供用の甕棺墓や土壙墓のほかに、600余個の河原石を約64㎡にならべた方形の配石遺構が発見され、その中央に出土した長方形の土壙には、長さ38㎝の石刀が副葬されていた。おそらくこれらの遺構は墳墓の集合したものであろう。
また、現地では、日常生活に使用された多量の土器や石器のほかに、呪術的な意味を有する石棒や土偶・土版・石冠なども出土している。特に赤く塗った薔薇の花を思わせる土製耳飾は美術品としても優れ、昭和54年国の文化財に指定された。
この遺跡は、縄文文化時代晩期の社会生活や信仰・習俗を知るうえで、わが国でも数少ない重要遺跡の一つにかぞえられ、文部省告示第50号により、国の史跡として指定された。
昭和63年2月28日 調布市教育委員会

 

”美術品としても優れる”耳飾りは、江戸東京たてもの園が所蔵。下記の調布市のサイトには石棒祭祀的な遺構や配石遺構の発掘時写真も掲載されている。 

https://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1431941588156/index.html 

 

上記解説は後で知ったので、現状で遺構が見られるのかどうかはわかりません。

 

住宅地に、ぽっかりと残った貴重な自然でもある。

 

ぎりぎりまで宅地化されているが。

 

子どもたちにとっては楽園。

 

見通しのいい場所に一本、花桃(?)が。

 

花見も楽しめた一日でした。