墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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本町田遺跡 東京都町田市本町田

前回のつづき。

版画美術館を見た後、町田市立博物館へと向かった。

丘の上の博物館の駐車場のとなりには、縄文・弥生の復元住居のある遺跡公園があった。

 

入口の説明板。 5500年前の縄文前期から弥生中期にも集落があったとのこと。

東京都指定史跡

本町田遺跡(ほんまちだいせき)
所在地:東京都町田市本町田3544-36、3549-42
指定日:1992年3月30日
本町田遺跡は1967年に発掘調査が行われ、およそ5500年前の縄文時代前期の住居址が4軒とおよそ2000年前の弥生時代中期の住居址が7軒発見されました。遺跡の全面を発掘したことで、それまであまり解明されていなかった多摩丘陵地の集落形態が明らかとなった上、異なる時代の遺跡が同じエリアに存在する「複合遺跡」であったことから、同丘陵地における集落を特徴づけるものとしてその重要性が認められました。その後、1970年に遺跡公園として整備・保存され、それぞれの時代の住居が1軒ずつ復元されました。1992年には東京都の指定史跡となっています。
開園から35年以上が経過し老朽化が目立ち始めたため、2007年度より復旧工事が行われ、5年をかけて2軒の復元住居の建て替え、園路の整備、多目的施設の建設を完了しました。
再築された住居は元々住居址(遺構)に盛土をして復元されたため、遺跡を傷めるなく内部が見学できるようになりました。また、縄文時代前期と弥生時代中期の住居のつくり方の違いを表現し、比較できるようになっています。

2011年12月

 

遺跡公園の場所はこちら。

 

2つの復元住居といくつかの住居跡を示す表示の周りに手入れされた芝生が広がる気持ちの良い広場があった。 

 

下記のかたのブログによれば、昭和41年に日本住宅公団「藤の台団地」建設に伴う造成工事中に縄文・弥生期の遺跡群が発見されて発掘調査がなされ、縄文前期の住居跡が4軒、弥生中期の住居跡が11軒、それぞれ共同作業場のような広場を伴うムラの跡として見つかり土器や石器も出土した。

調査報告書にての遺跡博物館建設の提案を真摯に受け止めた町田市が、縄文・弥生期の住居跡群と特に代表的な縄文式、弥生式の縦穴住居を各一軒づつ復元させるとともに周囲を公園として整備し、昭和46年に開園したとのこと。

 http://www.machida-jp.com/kimoto/hankei500/isekikouen.html

 

いろいろな方々の尽力により、造成を免れた貴重な遺跡だった。

 

その後2012年に再整備されてリニューアルオープンしている。

http://tamahaku.jp/event/00308.html

 

オリジナルは造られた時期に3500年の差があるが、よく似た外観の2棟。

 

入口に近い方が弥生中期の復元住居。

弥生復元住居(Y-3)

弥生時代に入ると、日本に大陸から金属の道具が伝わってきました。金属器を使うことで石器よりも細かい作業ができるようになり、原木ではなく、加工された住居の柱が登場します。木材と加工することで、丸太を結ぶだけの縄文時代に比べてより強度を増した住居を建てることが出来るようになりました。この復元住居も柱に加工材を用いています。
本遺構は大小2つの遺構が重なっており、本住居が拡張されたことを物語っています。ただし、縄文住居(J2)と異なり、同じ柱穴を使うなど前の住居の痕跡をうまく利用しています。

 

ノミの痕のある面取りされた柱。

 

梁と桁も、木を削って組まれている。

 

ということには後から説明板を書き起こしていて気づいた。

現地では写真だけ撮って、読んではいなかった。

 

次に縄文前期の復元住居へ。

 

とても見晴らしがよいところに築かれている。

 

その説明板。

縄文復元住居(Y-2)

竪穴住居は、地面を数十cmほど掘り下げて床面としたすまいです。柱は掘立式で、柱上に梁や桁を組み、その周囲に垂木や棟木をかけわたして屋根の骨組みをつくり、植物(芽)の茎や葉あるいは土などで屋根を葺きます。
縄文時代の住居は、柱や梁などに木材を丸太のまま使用することが一般的で、材種は栗が多かったようです。この復元住居は二股に分かれた栗丸太を4本用い、梁や桁も栗丸太材を用いています。木材同士は植物の蔓などで結んでいます。
この遺構には柱穴が8本あり、本住居は少なくとも1回以上の建て替えが窺え、長期にわたって人々が生活したと推察することができます。

 

整備されたスロープを降りていく。中は弥生期の住居より広い。

 

こちらの柱は二股の丸太。

 

梁と桁は縄で結ばれている。

ということに後から気づいた。現地では2棟の住居の造りは同じように思えた。

 

住居内から”広場”を見た感じは5500年前と同じ?

 

パノラマで。左が弥生中期、右が縄文前期。その間に見えるのが昭和平成期。

 

公園内にはガイダンス施設もある。

 

当遺跡出土物を展示したガラスケースが2つ。

 

 縄文中期の「顔面把手」 ちょっと見では顔とはわからなかった。

 

 パネル展示は「町田市における縄文時代の主要遺跡分布図」

 

現在地は12番。鶴見川の支流、恩田川の近くに位置するが、鶴見川流域には上流の方までのあちこちに縄文遺跡がある。

 

もう一枚は「鶴見川流域の弥生時代中期の遺跡分布」

左端の1番が現在地。弥生中期の遺跡は中流域に多い?

ピンクのエリア・早淵川流域の14番、大塚歳勝土遺跡へは一昨年行ったが、復元された方形周溝墓群は結構迫力があった。

massneko.hatenablog.com

 

公園を出て博物館へ向かう途中、駐車場との間に上り道があったので行ってみた。

 

眺めのよいポイントがあった。

 

高圧鉄塔が並び立つ多摩丘陵。

 

私有地に行き当たったので戻る。

 

こちらが町田市立博物館。

 

まさかの休館だった。

 

館内整理のための休館で、7/8から9/3まで、館蔵の東南アジア陶磁の企画展が催される。

「黄金の地と南の海から 東南アジア陶磁の名品 」
山田義雄、中村三四郎、木内宗久、上神亮治、4氏寄贈コレクションおよび購入作品総計1500点に及ぶ館蔵東南アジア陶磁から精選した150点を展示する名品展です。

https://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/cul/museum/hakubutukan_top.html

常設展示はないようだ。

 

下小山田町に町田市考古資料室があるので、次回はそちらを訪ねてみたい。