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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

国指定史跡 大塚・歳勝土遺跡公園・1 神奈川県横浜市都筑区(港北ニュータウン・センター北) 

神奈川県の古墳、寺社、遺跡

1/11の日曜日、横浜市歴史博物館へ、「横浜の遺跡遺跡展」の鑑賞と「ヤマタイ国時代の東日本」という講演会の聴講に出かけた。

講演会は13時からだったので、少し早めに出て、博物館に隣接する国指定史跡「大塚・歳勝土(おおつか・さいかちど)遺跡」を見学した。

博物館には一昨年の6月に市ヶ尾の稲荷前古墳群を見た際に立ち寄ったが、遺跡公園見学は初めて。


 

東急田園都市線で、あざみ野駅へ出て、横浜市営地下鉄ブルーラインで2駅目のセンター北駅で降りた。

下は駅の階段上から南西側の眺め。右の高架がブルーライン、左がグリーンラインになる。高架に挟まれた歩道(みなきたウォーク)をまっすぐ進んだ左手に、横浜市歴史博物館がある。

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駅にあった案内図。右が南西。上の写真は、駅から右側を撮っている。

大塚・歳勝土遺跡公園の入口は駅から遠い側、博物館のあたりにある。

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横浜市歴史博物館の大きな建物。

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中央に入口があるが、まずは通り過ぎてその先の歩道橋を上がる。

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遺跡公園につづく歩道橋。

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上記の位置から左側の眺め。遺跡公園のある台地がスパッと切り取られていることがわかる。左の巨大なショッピングセンターや駅でさえ、「遺跡の跡」に造られたものだった。遺跡の面積の3分の2は開発で失われている。

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歩道橋から右側の眺め。奥の左は茅ヶ崎城址公園。「中世城郭史の傑作ともいわれている(都筑市HP)城址」が平成20年に歴史公園として整備された。土塁や空堀、郭などが良好な状態で残っているそうだ。

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大塚・歳勝土遺跡公園入口の案内板。左下の楕円が大塚遺跡(弥生中期の環濠集落)、その右上が歳勝土遺跡(同時代の墓域・方形周溝墓群)

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以下はWikipediaから部分的な転載。

1972年(昭和47年)の発掘調査で存在が明らかとなり、居住域と墓域が一体的に把握できる貴重な遺跡して1986年(昭和61年)に国の史跡に指定された。

現在、歳勝土遺跡と大塚遺跡の3分の1の面積にあたる約33,000㎡が保存され、大塚遺跡で発見された遺構のうち竪穴住居址27軒を保存(うち7軒を復元)し、高床式倉庫と考えられる掘立柱建物は検出された10棟のうち1棟を復元、また、環濠を長さ250mの範囲で復元し保存している。歳勝土遺跡は、発見された遺構25基の方形周溝墓を保存し、うち5基を復元して保存している。

 

もとの規模は10万㎡=10haとなるので、登呂遺跡の7haより広かった。吉野ヶ里遺跡の86haとは比較にならないが・・・

 

下は博物館の展示模型。現在はくびれから下の部分が消滅して、駅や商業施設になっている。

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下は現地の説明板の写真。

左の写真では、遺跡の右上部分が消滅。左下には歳勝土遺跡の方形周溝墓が写っている。港北ニュータウンができる前の昭和40年代の姿。「遠い昔」ではない(はず)

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説明板からさらに上っていく。

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すると気持ちのよい芝生広場になった。

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まずは歳勝土遺跡の方形周溝墓群へ。5基の方形周溝墓が並ぶ姿はインパクトがある。

説明板には「遺跡全体を1.5mの厚さの盛土によって保護」とあるので、比高差は強調されているかもしれない。

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隅の部分。これが日本海側では四隅突出墓につながっていったのか?

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集落がある場所と80mくらいの距離で同じ標高にあるが、お墓の方が南斜面の、よりいい場所にあるように思われる。

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「墓道」に関する説明板。

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古墳に並べられた埴輪には葬列をあらわしたものがあり、大塚のムラでも亡くなった人を歳勝土の墓地へ送っていったのでしょう」とあった。

弥生時代の方形周溝墓でも埴輪を並べて葬列をあらわしていたとは知らなかった。

 

地中の木棺まで復元した展示もあった。

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5基以外は、埋め込んだ石で方形周溝墓の位置を表していた。

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こちらは遺跡を含む周辺地形の模型。 当遺跡が「大きな谷にきざまれた複雑な形の台地の上」にあることがわかる。

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上記の写真の右上あたりからの北東の台地下方向。

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次に地続きの大塚遺跡に入った。