前回の五色塚古墳へ行く前には、兵庫県立考古博物館を訪ねた。
最寄りの土山(つちやま)駅と垂水駅はJR神戸線で6駅の距離。
古墳の香りがする名前の土山駅から、博物館がある大中(おおなか)遺跡までは「歴史とであいミュージアムロード」を通って1.4km。
後で知ったが見通しの良いこの遊歩道は、昭和59年に廃線となった別府鉄道跡が整備されたもの。
ところどころに歴史年号プレートが置かれ、25mごとに100年遡って日本史を学べる仕組みにもなっている。
最後、大中遺跡へ架かる橋の柵は音階で音が鳴る鉄琴になっていて子どもたちが楽しんでいた。
橋の先が公園東入口側。
実は往路はタクシーを使ったので、西入口側から入った。
西入口を入ってすぐに、「遺構復元ゾーン」
大中遺跡は、播磨大中古代の村(オポナカムラ~弥生語で大中村)として整備されている。
公式サイトによれば大中遺跡は弥生時代後期~古墳時代初頭の遺跡で、長さ500m×幅180mの約7haの広さ。
昭和37年(1962)に町内の3人の中学生が発見し、昭和42年に国史跡に指定され、昭和47年から「播磨大中古代の村」として整備されてきたそうだ。
これまで調査された面積は全体の2割で、73軒の竪穴住居跡が見つかっているが全部で250軒程と推定されている。内行花文鏡片も出土。
https://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/kyodoshiryokan/kodainomura.html
空が広く、樹々も高く、気持ちの良い空間だった。
出土品は敷地内にある播磨町郷土資料館に展示されている(が、時間の都合で次の機会とした)
公園内のストレート道は、駅から続く別府鉄道軌道跡。
そしてこちらが兵庫県立考古博物館。
常設展示は一般200円だが、今回は特別展とセットの500円を選んだ(特別展、埴輪の世界の内容は次回エントリで)
まずは常設展示室へ。最も目を惹くのは実物大の復元古代船。
史料現物だけでなくレプリカが多く、古代をリアルに”楽しめる”展示構成になっていた。
加工した巨木を精巧に組み合わせて造られている。
動力は複数の櫂。
船底には太さ2mの丸太を繰りぬいてた材が使われていた。
縄文人、弥生人、古墳人の胸像モデル。
古墳時代前期の坪井遺跡2号墓出土の人骨。
身長161.4㎝の40歳前後の男性だが、埋葬時に足首が切られた跡が見られる。
弥生人のシャーマンはリアル。
戦闘時の弓の様子もリアル。
武具をつけて馬にのる古墳人。
鎧兜の復元。
それらが古墳石室に埋葬されている様子も。
古墳時代中期(5世紀)に築かれた雲部車塚古墳(篠山市)の石槨レプリカ。鎧が5領、馬具1組、剣8本、刀34本、矢107本が石槨の中から出土した。
石棺は長持形。
竪穴式石室なので現地へ行っても石室内は見学できないが、そもそも宮内庁陵墓参考地。
兵庫県内の大型古墳を示すパネル。上段右が最大の五色塚古墳、中央が雲部車塚古墳、左が壇場山(だんじょうさん)古墳。
埴輪の展示も。
鰭付円筒埴輪や家形埴輪(出土地は撮りそびれたが、五色塚のものか?)
東山古墳群(東山2号墳)の横穴式石室出土の須恵器。
勝手野6号墳出土の装飾付須恵器の”肩”のところには、猪、矢が刺さった鹿、騎馬人物、相撲風景をあらわす小群像があり、ストーリー性のある情景が表されていた。
さまざまな古墳から出土した勾玉、金環、ガラス玉など。
修羅(運搬用ソリ)に乗った石棺レプリカもあった(こちらは蓋)
反対側から。修羅はV字型の丸太が使われている。
日時によっては”身”の中に入れる。
レプリカもモデルは奈良県の見瀬丸山古墳のものだが、石材は地元の竜山石が使われている。 蓋と身合わせて重さ9トン。車輪の無い時代に、途方に暮れそうな重さと運搬距離。
ちなみに現在の兵庫県の日本海側・但馬地方には、古墳時代の朝鮮半島との交流を伝える伝説がある。その「アメノヒボコの伝説」が分かりやすくまとまっていた。
但馬地方には海外との交流を物語る伝説が残っています。アメノヒボコという新羅の国の王子がわたってきたという伝説で、古事記などの古い書物にも記されています。
1、アメノヒボコの妻、日本へ
今から1500年以上むかし、新羅の国で一人の女性が日の光をうけて赤い玉を生みました。その玉はアメノヒボコの手に渡ると美しい女性になり、妻になりました。しかし、ある時、アメノヒボコがひどい悪口を言ったので、妻は日本へ渡ってしまいました。
2、妻を追い、難波へ向かうも…
馬は大阪の難波で比売碁曾(ひめごそ)神社の神・アカルヒメになりました。アメノヒボコは妻を追って難波に向かいましたが、海峡の神にじゃまをされ、入れませんでした。
3、播磨の神との争い
アメノヒボコは播磨に来ると、土地の神イワノオオカミと争いました。天皇は播磨か淡路に住むことをすすめましたが、アメノヒボコはいやがりました。
4、淀川から近江、若狭へ
アメノヒボコは瀬戸内海を東へ進み、淀川をさかのぼって琵琶湖のある近江でしばらく住みました。その後、来たへ進み、若狭で日本海に出ました。
5、但馬に定住し、伝説となる
アメノヒボコはさらに但馬にわたり、ここで済むことに決めました。そして土地のむすめと結婚し子孫を残しました。
通路には、縄文から江戸期までの地元産土器がずらりと展示されていて壮観だった。
博物館の西側入口。建物自体も興味深かったが、時間の都合で次の機会とした。