前々々回のつづき。
常泉院の北の大通りは春日通り。この辺りは「富坂」の名が付く坂道。
近くには徳川家康の生母・於大の方や秀忠の娘・千姫らが眠る伝通院があるが今回は寄らず、中央大学門前の横断歩道を渡って住宅地を歩いた。
坂名板を撮りそびれたが下記のサイトによると、江戸時代に鳶が多くて「鳶坂」と呼ばれ、それが転じて「富坂」となったよう。
小石川大神宮は昭和41年の創建。ビルの通路を抜けた先に社殿があった。
その先へ進むと上富坂教会。
低い囲い網、大きな樹木のある静かな敷地だった。
教会のすぐ先に魅力的な坂道があった。
数段ずつの階段が連なる。植木の下を通り抜けて進む。
木造長屋が残るノスタルジックな一画があった。
さらに下る階段があった。
その先は白山通りに並行する大通り。看板建築の並びに魅力的な居酒屋もあった。
白山通りに出て、菊坂の一本南の細道を入り振り返ったところ。
2つの道が並行していた。
道端の花。 結構本降りになっていた。
横を見ればそこも細道。
スイッチバックで上の道へ。
その先の斜面にある清和公園。
地図で見て公園沿いの道のカーブに惹かれて行ってみた。
なかなかの高低差。
満開直前の静けさ。
公園の上部。道路の向かいはマンションだった。
公園内の説明板。
右京山 清和公園の上一帯
もと上州高崎藩主(7万2千石)松平右京亮(うきょうのすけ)の中屋敷であった。明治維新後土地は家臣に与えられた。後、下真砂・春日通り沿いの地の他は、政府の所有となり、陸軍省や文部省の所有となった。
長らくこの台地は原っぱで、子供たちのよい遊び場であった。そして右京亮にちなんで右京山(右京ヶ原)と呼ばれた。
文部省用地は、大正11年に東京市に払い下げられた。市は住宅、独身者アパート(清和寮)や真砂小売市場(現区民センター内)などを造った。
小説「姿三四郎」(富田常雄作・昭和17年刊)の中で、三四郎と檜垣源之助との死闘の場となった。
また近くの旧菊坂町時代の樋口一葉は、妹と虫の音を聞きに来た。また、「この夜、母君と共に右京山に烟火(はなび)を見る。九段の祭にて、こゝよりよく見ゆればなり」と明治26年5月7日の日記にある。
昭和59年3月 文京区教育委員会
説明板の裏手辺りが一番高くなっていた。
”高いところ”を超えた先の下り道。
反対の南側へ下っていくと左手に階段が現れた。
上がった先には崖を回り込むような小道。
振り返ったところ。
小道を進んでいくと、趣のある木造家屋の前に出た。
前回来てから3年経ってしまった鐙坂。
来た道を戻って枝道を降りた。
降りた先、春日町交差点に出る前にあった細枝道。
細いのに自販機が。
ここにも気になる居酒屋があった。
つづく。