墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

兜塚古墳跡 神奈川県横浜市鶴見区駒岡町

前回のつづき。

白山古墳跡を見たあとは、直線距離では1.6kmほど南にある兜塚(かぶとづか)古墳を目指した。

鶴見川を渡るので結構大回りになる。

県道14号に出たらタイミングよく南へ行くバスが来た。が途中で東にそれてしまい、栗田病院前で下車。住宅地の中を歩いて末吉橋に出た(スマホがあるから可能な技)

歩道橋から右が鶴見川にかかる末吉橋。正面奥は三ツ池公園の緑。

 

鶴見川上流方向。流れはゆっくりだが豊かな水量だった。

 

上末吉の交差点から北西に300mほど歩くと、道沿いに「歴史と緑の散歩道」の案内があった。

 

「散歩道」入口の上り。

 

台地の尾根の先端のその場所に、兜塚古墳がかつてあった。

城壁のような囲いは太田道灌の兜塚伝説を表している。

 

県道140号にかかる歩道橋の上から。この左に横浜市立上末吉小学校がある。

 

「歴史と緑の散歩道」へ。

 

この付近は、かぶと塚ふれあいの樹林と呼ばれているようだ。

 

さらに「兜塚」の標柱の立つ枝道があった。

 

説明板も。

兜塚

兜塚古墳跡

兜塚は、外形が兜の形をした古墳で、高さ5.8m、直径30mあり、副葬品などから古墳時代後期(6世紀)頃のものといわれています。

昭和6年(1931)頃、長慶天皇(1368~1383)の陵墓だという説がおこり、県当局よりの指示で、石野■(王へんに央)、山田寅元、池谷健治らが、発掘を試みたところ礫床を発見し、瑪瑙の勾玉・水晶の切子玉・青銅渡金の金環など数点が発見されました。その後、昭和26年と40年にも調査をしています。

兜塚伝説

長禄元年(1457)、太田道灌が江戸城を築き、各地をみて回った時、加瀬の台(川崎市幸区)にも城を築こうとして一夜を過ごしました。その夜、夢の中で、どこからともなく飛んできた鷲が、道灌の兜をさらって飛び去り、この丘の上に落として行きました。道灌はこれを不吉として加瀬の台に城を築くのをあきらめ、後にこの地を夢見ヶ崎と名づけました。鷲が兜を落とした丘に兜を埋めたので、兜塚と言われるようになったと伝えられています。

昭和63年3月 鶴見区役所

 

さらに階段を上る。

 

祠が見えてきた。

 

丘の上には駒岡浅間社があった。

 

駒岡浅間社の祠。実はこの裏側に兜塚古墳の石碑があるはずだが見逃してしまった。

現在は細長い、台地尾根の先端で、直径30mの円墳があったとは想像しにくい。

県道を通す際にかなり削ってしまったようだ。

 

台地上からの眺め。木々が茂っていなければかなり見晴らしがいい。

古墳の高さは5.8mとあったが、道路のある面からは20m以上ありそう。

 

奥の緑は直前に歩いた夢見ヶ崎(加瀬山)

すぐ先には鶴見川が流れる。両方の台地上に築かれた古墳は、遠くからでも良く望めたのではないか。

 

祠の位置から振り返って。「境内」は狭い。

 

西側の上末吉小学校。

 

一旦尾根から降りて、舗装道へ。

 

再び尾根へ上がる道があったので行ってみた。

 

ちょっとしたハイキング。

 

気持ちのよい道だったがすぐに行き止まりになってしまった。

 

少し引き返して階段を降りて舗装道へ。

 

少し先へ進んで振り返ったところ。左手の緑が墳丘のあった尾根。尾根の西は低くなって広いグランドになっていた。

 

その先の尾根は宅地になっていた。途中で尾根を北側へ降りた。

 

なかなかの高低差があった。

 

上記の階段を降りたらさらに階段が続いていた。

 

谷戸のような地形で”対岸”にも魅力的な階段があった。

そのまま県道140号に出て、バスで綱島駅へ出た。

兜塚古墳へ行かれる際は、綱島駅から鶴見駅行き(またはその逆)のバスで上末吉小学校前で下車が便利。