鉄道連隊橋脚を訪れたあと、歩きながら撮った写真。
住宅地の中を縫うような形で暗渠と開渠が交錯する。
ここから開渠。
クランク型になっている場所もあった。
クランクを抜けると、住宅に囲まれた農地があった。
迷路のような川跡辿りの後、斜面を上がって木下街道に出た。街道沿いには瓦屋根と板壁の歴史を感じる家屋が点々と残っていた。
背後が屋敷森のようになっている電気屋さん。
この区間の木下街道は、ゆるくカーブしながら台地の高い場所をトレースしている。街道に並行して「鉄道連隊橋脚」が跨いだ川があるので、西への枝道は下りになる。
逆に、街道の東側は少し高くなっている。
こちらは手作り看板の理容室。「サインポール」は静止していたが営業中のようだった。
堂々とした屋根のお宅。
こちらは清長庵という宗教法人の敷地。「青面金剛」の迫力ある字面。
帰宅後に、こちらのブログで境内に「道標地蔵」があったことや、祠に掲げられた「三十一番」が「江戸御府内八十八ヶ所」であることを知った。
さらに進むと東武野田線の踏み切り。直前に馬込天満宮の看板があった。
石段を上がると冠木門。
境内は思ったより広い。
なかなか見晴らしのよい境内。
庚申塔が並ぶ一角もあった。
樹勢のよい古木が2本。親子を見守っているようだった。
踏み切りをわたった場所から。中央右が上記の古木。
馬込沢駅。前回来た時は地上駅だったが、改札口が地下に新設されていた。
踏切から西に50mほどの場所に「矢島酒店」がある。
日本酒の品揃えが素晴らしいお店。前回馬込沢駅に来たときの目的地。今回もついつい2本購入。
その斜め向かいあたりの昭和風の4連棟。
さらに西へ進む。このあたりにも立派な日本家屋がある。
街道に面した場所から鬱蒼とした森が始まる箇所もあった。森の境界に沿った枝道はくねくねしていた。
船橋市藤原三丁目の藤原神社。
鳥居は木下街道に面している。向かい側のお宅も歴史を感じる佇まい。
さらに先に行くと、玄関までのアプローチが長くて先が見えないお宅があった。門はないが「これより先、当家に御用の方以外、立入禁止」の文字が効いていた。
こちらも街道沿いのお宅。
藤原観音堂。藤原新田という地名に由来する。
境内には観音像の説明板があった。33年に一度の御開帳の秘仏で次回は平成39年、12年後になる。
市指定文化財(有形・彫刻)
木造観世音菩薩立像
1966年2月22日指定
当藤原堂内に安置されている観世音菩薩像は像高90cm、木造箔押し、寄木造りで、製作年代は鎌倉時代と推定されるが江戸初期とする説もある。当地方では珍しく端正な仏像であり、土地の人々には「身代り観音」と呼ばれ、秘仏である。
「身代り観音縁起」によれば京仏師感世(かんぜ)は宇治の長者の依頼でこの像を刻み、帰途に大江山で山賊に襲われ刀傷を負ったが身体に異常は無かった。同じ頃、長者のもとで観音像から血が流れていたことから、観音像が感世の身代りだったことがわかり、篤く信仰されたと言われる。江戸時代初期に行徳の富豪田中三左衛門が丹後の見樹寺から請い受けて持ち帰ったのがこの身代り観音であると伝えられる。この像は徳願寺に納められたが、藤原村が開かれた後、元禄三年(1690)徳願寺領のこの地に移し、寺を建てて安置したといわれている。
1992年3月 船橋市教育委員会
こちらは七面堂。船橋市のサイトの資料(文末)によれば「藤原新田を拓いた鈴木家・安川家の塔碑が多く残っている」そうだ。
来る途中にあった「家が見えない私有地の入口に立入禁止の札のあった安川家」のことだと思われる。
お堂の位置は結構高い。
石段上からの眺め。街道をゆく人々から目立つ場所だった。
七面堂から350mほどで、JR武蔵野線・船橋法典駅に着いた。ズドンと一直線の切り通し。現代の鉄道は地形の方を変える。
・資料
船橋市|ふなばしの歴史を探訪してみませんか>船橋に残る有形文化財>文化財をめぐるお散歩マップ~木下街道(pdf)
上記には木下街道についての説明もあった。
古くは銚子道や鹿島道と呼ばれ、八幡(市川市)の東から鎌ケ谷・白井を経由して利根川沿いの木下に至る道です。貞享4年(1687)8月には鹿島での月を見ようと、松尾芭蕉が門人とこの道を通りました。明治42年(1909)には鎌ケ谷と中山を人車鉄道が開通しました。
つまり木下街道は、利根川と江戸川をむすぶ陸路の近道だった。
木下を「きおろし」と読むのは、川で運んできた材木を下ろしたことに由来するらしい。
江戸時代、木下河岸からは鹿島神宮・息栖神社・香取神宮の三社をめぐる「木下茶船」が出ていた。そんなクルーズ企画が復活できればぜひ参加したい。