5/10の日曜の午後、前回エントリの「地形で読み解く鉄道路線の謎」 竹内正浩著にあった「橋脚」を見に行きました。
記事は新京成線についてでしたが、今回は東武アーバンパークライン(野田線)の馬込沢駅から歩きました。
馬込沢駅のすぐ南を「木下(きおろし)街道」が交差します。歩道部分が極端に細いその街道を北東方向へ向かいます。
途中、馬込十字路を越えた付近にあった石塔のような塚。
小さな石塔を集めコンクリートでタワーのように固めています。
隣り合う石碑の標柱には「戊辰戦争兵士の墓」とありました
慶応4年(1868)閏4月の戊辰戦争(市川・船橋戦争)において、下総国葛飾郡上山新田馬込沢で亡くなった官軍佐土原藩士、常吉の墓。明治19年(1886)に千葉県が造立。船橋市教育委員会
以下は佐土原藩 - Wikipediaより。
佐土原藩(さどわらはん)は、江戸時代に日向国那珂郡及び児湯郡を領有した藩。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)
島津氏支族佐土原島津家が藩主。
馬込十字路から700mほど、馬込沢駅から約1.2kmに「二和道」のバス停があります。
角にセブンイレブンがある信号を左折すると、ありました!
大きなコンクリートの塊が並びます。
軌道の幅は600mmの軽便鉄道だったとのことですが、大迫力。
グーグルマップの航空写真でもわかります。
型枠に使った板の跡も残っていました。
傾斜を下ると、桜の木の下に次の2脚が続いていました。
説明板も整備されていました。
史跡 鉄道連隊橋脚
所在地 鎌ヶ谷市東道野辺6丁目8番
この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため、建設した鉄道の一部です。
近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。千葉県でも、鉄道大隊から独立した第1鉄道連隊が千葉町(現在の千葉市)に、第2鉄道連隊が津田沼町(現在の新京成新津田沼駅の辺り)に配備され、昭和20年(1945年)第2次世界大戦終了まで活躍しました。
この橋脚は、第2鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれ、この橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が、整備を終え開通したのは、昭和30年(1955年)のことでした。
平成11年3月 鎌ヶ谷市教育委員会
鉄棒横の1脚は、ボール投げ用の壁として余生を過ごしています。
反対側・北西の端から。道路の方が橋脚の列をよけて作られていることがわかります。
全部で4脚並んでいますが、その頂点を結んでも水平にはならない印象でした。
北西の端の1脚。道路の傾斜はちょっと誇張されているかも知れません。
橋脚のある公園は「アカシア児童遊園」でした。小学生のグループと親子連れが遊んでいました。
公園の一番低い部分、橋脚の2本目と3本目の間には、川が残っていました。
道路を渡った対岸は暗渠になっていました。
下は、木下街道に戻って川の流れているエリアを見たところ。高低差が感じられます。
橋脚は、2年前に船橋市郷土資料館で展示写真を見て気になっていた案件。
写真をよく見ると、建設時(大正7年)の橋脚は木製でした。
船橋市郷土資料館、再訪しなければ・・・