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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

墾田永年私財法で再開発された、1200年前の千葉ニュータウン!

9月6日の講演会の3番目の研究報告

「印旛郡舩穂郷のすがた」(奈良・平安時代):印旛郡市文化財センター 小牧美知枝氏

 

千葉ニュータウン造成に伴う発掘調査では、奈良・平安時代の遺跡も多数発掘されたが、これだけの広範囲がまとまって調査され、その全体像が明らかになった例は少ないそうだ。 

小牧氏の講演は、集落遺構や墨書土器、土製形代(かたしろ)の話を中心とした専門的な内容だったが、発掘調査の結果、「墾田永年私財法」によって8世紀末葉以降に千葉ニュータウン地域の集落が拡大した、という説を述べられていたので、これに乗って勝手に見出しをつくってしまいました。

 

興味深い講演内容でしたので、下記に一部のみですが紹介させていただきます。

・印西市船尾・松崎周辺は、奈良・平安時代から印旛郡舩穂郷と呼ばれ、戸神川河口部両岸には建物跡100棟以上の大集落、中流に30棟程の中規模集落、谷奥には甍棟の寺が築かれていた。

・舩穂郷中核の鳴神山遺跡からは緑釉・灰釉陶器(東海から)や刷毛甕(畿内から)など他地域で生産された土器群が出土。もうひとつの中核である船尾白幡遺跡からは36棟の掘立柱建物や鉄斧・鍬、鍛冶工房跡も出土した(つまり鉄資源を持った有力者だった)

・墾田永年私財法は743年に施行された後、道鏡によって765年に禁止されるが、道鏡失脚後772年に再び墾田私有が許可されると、土地の開墾・私有が活発になり、そのような新興開発地のひとつが舩穂郷だった。

 

当日の2番目の研究報告でも、弥生時代後期から古墳時代出現期にかけて、外から人がやってきて「ニュータウン」をつくったと言及された。


講演会「千葉ニュータウンの昔むかし」 @千葉県白井市文化会館 - 墳丘からの眺め

 

古墳時代前期の人口増加が終息すると、一旦「古墳時代のニュータウン」も閑散とするが、奈良時代以降に再び開発の波が来て、9世紀前半頃には最盛期を迎えた。

その時代の「丈部(はせつかべ)氏」や「物部(もののべ)氏」の関与が伺える墨書土器も出土している。

 

しかし再び10世紀前半頃までに規模を縮小してしまう。

その後、数百年を経て江戸時代には野生馬を育てる「牧」となり、昭和になって現在のニュータウンとなった。

歴史は繰り返す・・・?

 

墾田永年私財法といえば、「ななひゃくよんじゅうさんねん♫ こんでんえいねんしざいほう♪」というレキシの歌が思い出される。なぜか目頭がちょっと熱くなる。


レキシ - 墾田永年私財法 feat. 田ンボマスター(山口 隆 from サンボマスター) - YouTube

 

墾田永年私財法 feat. 田ンボマスター

墾田永年私財法 feat. 田ンボマスター

 

 

今回の講演会の図録はpdfで見られるようになっている(重いのでPC向き)

http://www.echiba.org/pdf/hoka/1407_CHIBA_NT_mukashimukashi_zuroku.pdf

 

また、印旛郡旧本埜村・教育委員会 杉山祐一氏のサイト「千葉ニュータウン今昔物語」には一冊のガイドブックほどの情報がまとまっている。

http://www.chiba-newtown.jp/Konjaku01-20.htm#Doc13