前回の石塚山古墳の南1.5㎞には番塚(ばんづか)古墳があります。
マップに導かれた先は住宅街。右の金網の中でした。
手厚く保護された石室開口部。
解説は陶板。
番塚古墳
所在地:福岡県京都郡苅田町大字尾倉字与原4335
指定年月日:昭和35年(1960)1月5日
管理団体:苅田町教育委員会
協力:九州大学文学部考古学研究室・福岡県文化課番塚古墳の概要
番塚古墳は、海岸線近くの丘陵上に造られた、推定全長約50mの前方後円墳です。昭和34年(1959)、宅地造成中に偶然、横穴式石室が埋葬当時の状態で発見されました。
石室の中からは、たくさんの遺物が出土し、この古墳は、5世紀の終わりから6世紀の初め頃に造られたと考えられています。
宅地造成中に未盗掘の石室が出たとは、さぞかしびっくりしたことでしょう。
(平面が)羽子板形の横穴式石室は長さ3.7m。
柵の間から内部を。
奥壁をフラッシュで。腰石の表面がテーブルのように平滑です。
以下は苅田町歴史資料館でいただいた資料より。
(前略)主体部の構造が墓室に至るトンネル状の通路がなく、天井が低いという古式の様相を呈する。石室内には2名の被葬者が木棺に埋葬されていたと思われ、副葬品には中国から伝来した神獣歌舞画像鏡をはじめ、朝鮮半島南部との交流を示す鳥足タタキ文様壺のほか高句麗の装飾古墳等に見られる月を象徴とする蛙型の木棺飾り、大刀刀身に百済武寧王陵出土銅剣などに見られる魚と蓮の文様を金で象嵌したものなど多様な副葬品が出土している。これらの副葬品や石室構造から5世紀の築造で、6世紀に追葬が行われ、被葬者が生前深く中国・朝鮮半島との交流に関わっていたことがうかがえる。
別の解説板。
元は墳長50mですが、現在残るのは後円部の一部のみ。
上の図は、発掘調査の結果をもとに、古墳が造られたときの形を推定してかいたものです。墳丘は2段に築かれ、前方部が大きく張り出しているのが特徴です。また、埴輪も出土しており、墳丘上を埴輪で飾っていたと思われます。
墳丘平面の復元図、左が北。
こちらが後円部の最頂部の先端(北)側。
そこから南東方向。
背面には鉄棒。最近は使われていない模様。
その隣には井戸も。防災公園でもあるのですね(後円部上ではありますが)
墳丘から東側の眺め。地図で見ると昔の海岸線までは、ほんの数軒先の感じがします。
番塚古墳周辺古墳地図。”主要”なものだけでこの数なので、この日の最後に御所山古墳を選んで訪ねました。
2023年9月上旬訪問