先日、三の丸尚蔵館へ行った際に皇居東御苑を訪ねた。かつての江戸城の中核、本丸、二の丸、三の丸があった場所。
通常は月曜と金曜以外が公開日で9時から、大手門・平川門・北桔橋門の3ヶ所から入れる。入場無料、入場時にかばん中身のチェックがある。
http://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html
見どころの解説は千代田区観光教会のサイトが見やすくて詳しい。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/2133/Default.aspx
以下の説明は上記を参考にした。
大手門(江戸城の正門)のうちの高麗門を入って振り返ったところ。
石垣に囲まれたエリアを直角に曲るともう一つの門。これらワンセットが大手門で「枡形」という形式になる。藤堂高虎が慶長11年(1606)に設計したといわれているそう。
石垣だけでなく柱の部材にも圧倒された。ここは空襲で焼失したが昭和42年に復元。
三の丸尚蔵館の前で。12月10日まで宮内庁が所蔵する貴重な考古資料の特別公開展「古代の造形~モノづくり日本の原点」が開催されている。
尚蔵館のすぐ先に三の門跡の石垣が。奥には門を警護する与力・同心が詰めていた同心番所がある。
三の門は下乗門とも呼ばれ、大名であっても尾張・紀伊・水戸の徳川御三家以外は駕籠を降りて検問を受けたそうだ。門から左に屈曲した先は大通りのようになっている。
”大通り”の片側には長さ50mの百人番所がある。
鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組(各組とも与力20人・同心100人)が交代で、昼夜を問わず警護にあたっていたとのこと。
背後には濠を介して大手町。
中之門への石垣の巨石は、江戸城でも最大級(35トン前後)とのこと。
右に屈曲して中之門跡。
中之門の内側には大番所(昭和43年再建)がある。本丸への最後の番所で、位の高い与力・同心が警備していたとのこと。
大番所から左に曲り、さらに右に曲ると中雀門。文久3年(1863)の火災の熱で表面が荒れた石垣がそのまま残っている。
中雀門跡の先に、かつて本丸御殿があった広場がある。
門柱のようにそびえている2本のケヤキが、ほぼ御殿の正面玄関にあたるという。
広場の一画にある果樹園には、クリスマスツリーのような柿の木が。四溝(ヨツミゾ:カキノキ科)という説明札があった。
南側、富士見櫓に向かう道沿いにクスノキの巨木があった。家康も見たか・・・?
その先に端正な富士見櫓(ふじみやぐら)があった。
複数あった説明板のひとつ。
富士見櫓
「櫓(やぐら)」は、城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割をもった建物です。かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現存する櫓は、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つとなりました。富士見櫓は、明暦の大火(1657)で焼失しましたが、その後間もなく再建され、天守の代用としても使われていました。将軍が富士山や両国の花火、品川の海を眺めたといわれています。
ちなみに、他の2つの櫓はこの位置。巽櫓は桔梗門の隣、お濠に面している。
伏見櫓は現在の吹上御苑内にあり、二重橋の奥にチラリと見える(春の写真)
富士見櫓から来た道を戻って北西方向へ進む。途中にあの「松の廊下跡」がある。
その先の斜面に茶畑。
茶畑脇の坂を上がったところに「富士見多聞」があった。 昨年から内部も公開されているがこの時は閉まっていた。
鉄砲や弓矢が納められていた武器庫で、本丸には15棟あった多聞のうち唯一残っているもの。後ろは濠に面しているが水面まで高さ20mの石垣が築かれ防禦を固くしている。
その先は深山の趣き。
その先には、なんと石室があった。
入れないが覗けるようになっている。左右に広がる内部は20㎡程だそう。
説明板があった。「せきしつ」ではなく「いしむろ」で、用途は諸説あるが火事などの際に大奥用の調度などを避難させる場所と考えられているそう。
一瞬、旧江戸城に古墳があったのかと錯覚できて楽しかった。
地形的には海に突き出していた台地端の最高所であり、芝丸山古墳や擂鉢山古墳の例をみても、あっても全く不思議はないはずなので・・・
石室の先、本丸の一番北側に天守台がある。
慶長11年(1606)に家康が築いた天守閣は先程の富士見多聞のあたりらしい。
ここには元和8年(1622)二代秀忠が天守閣を建て直し、さらに寛永15年(1638)に三代家光が最も大きい規模で建て替えたが、明暦3年(1657)の火災で焼け落ちた。
現在の天守台は明暦の大火後の万治元年(1659)に天守再建を目指して加賀藩前田家の普請で築かれたが、幕府内で天守不要との結論が下され、以後再建はなかった。
天守台は見晴らしのいい広場になっているが、意外に小さく感じられた。
武道館の屋根をズームで。
南側の眺め。
今は芝生の広場だが、かつては表・中奥・大奥からなる広大な本丸御殿が広がっていた。手前側が大奥で、そこで暮していた女性は3千人に上っていたという。
天守台の裾を回って北側の出口へ。
北桔橋(きたはねばし)門を内側から。
門の外側は橋と一体化している。
太田道灌の時代はこちら側が城の大手(正面)と伝えらていれるそうだ(その頃は大手門側は海辺だった)
橋の上から西側の乾濠。
東側の平川濠。
自分の影も石垣に映った。
かつて北桔橋門の橋は、有事に備えた跳ね橋だったそうだ。