前回のつづき。
桜井茶臼山古墳からは直線距離で南西に1.7kmの位置にあるメスリ山古墳を目指した。
両者とも鳥見山古墳群に属するが、その間は谷状で初瀬川の支流が流れている。
南側の山に向かってゆるやかに上っていくと大きな鳥居があった。
以下は説明板より。
談山神社 大鳥居
御破裂山(標高618.5m)の山腹に、南面して鎮座する談山神社の、北の入口に位置する大鳥居である。大鳥居は石製で、高さ約8.5m、長さ約11.5mであるが、隣地の火災の際、西側の石材の端部が落ちてしまった。石材は花崗岩で、御破裂山の山腹から切り出されている。
談山神社の桜井側の入口として繁栄したことが、付近の街並みから想像できる。桜井市教育委員会
鳥居だけが住宅街の中の細長い敷地に立っていた。
ちなみに談山神社の境内は川を遡って5.2kmの山の上になる。重文の十三重塔がある。
藤原鎌足を祀る神社で、中大兄皇子と大化改新の密談を交わしたことが神社名の由来となっているそう。次の機会で訪ねたい。
談山神社|奈良・しあわせ散歩〜パワースポット&カフェ&雑貨大好き女子のよくばりガイド〜|奈良大和路
鳥居の下にあった標識。左に沢山古墳があるが、右のはずのメスリ山古墳はなぜか文字が削られていた。
また、談山神社の方へ上っていくと国宝・十一面観音で有名な聖林寺がある。廃仏毀釈前は三輪山・大御輪寺の本尊であった天平期の菩薩像。木心乾漆造りで高さ209cmもある。学生時代に拝観したが水泳選手のように均整の取れた体躯に見とれたことを思い出した。
たったの700mで再会ができたはずだが、今回は古墳の旅で、安倍文殊院の古墳にも寄りたかったので、こちらもまたの機会とした。
鳥居の場所から右の矢印へ向かうと「いかにも」な雰囲気の木立が見えてきた。
かろうじて読める標識に「メスリ山古墳」とあった。
道から見上げる後円部。
グーグルアースで。軸は東西を向いている。
メスリ山古墳は全長224m(復元長250m)、後円部の高さは23mになる古墳時代前期(4世紀初頭)の前方後円墳。全国で14位の大きさとなる。
後円部裾から側面に沿って前方部裾へ。くびれ部のあたりにベンチがあった。
後円部側を振り返ったところ。
前方部に上がる道がついていたので上がらせていただいた。
前方部の上は果樹園になっていた。奥が後円部。
前方部上から北側の眺め。すぐ手前まで普通の住宅地。
南側の眺め。南にも落ち込む地形になっていた。この墳丘が周辺から非常によく目立つ位置に築かれたことがわかる。
前方部の南側に降りてみたが抜けられなかった。降りて見上げる墳丘。左が前方部、右の木立が後円部。
前方部の背から後円部へは樹木が茂っていて進むことができなかった。
北側の後円部裾から上がれる道を探した。
道らしきところに葺石と思われる石がゴロゴロあるのを避けながら上る。
後円部墳頂は木々に囲まれていた。
木立を透かした墳丘からの眺め。
墳頂には石棺の蓋が露出していた。
こんな状態で見られるとは思わなかったので、ひとり胸を高鳴らせた。
ここは被葬者を埋葬した竪穴式石室ではなく、副葬品だけが埋納されていた石室だった。1960年前後の発掘調査で、盗掘を受けた主室の東側に並列する未盗掘の副室が発見され、膨大な量の武器や農具などが出土している。
さらに石室の上は大きな円筒埴輪で囲んだ長方形(11m×5m)の壇が築かれていた。
壇は円筒埴輪で二重に囲まれていた。(橿原考古学研究所附属博物館の展示パネル)
その中には、高さ2.4mの日本一の大きさの円筒埴輪も!(@橿原考古学研究所附属博物館)
博物館では出土した副葬品の数々も目にすることができた。
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 奈良県橿原市畝傍町 - 墳丘からの眺め
それがこの場所にあったとは!
余韻にひたりながら墳丘を降りて前方部裾から再び見上げる。
今回南側の墳丘下へは廻らなかったが、こちらの方のブログによれば南側の八坂神社からのアプローチが正しかったようだ。自分は説明板も見つけられなかったが神社の方にあったのかも。
メスリ山古墳 (めすりやま) 国史跡 【更新版】 大和の古墳探索/ウェブリブログ
前方部の先、フェンスで囲まれた中にも古墳があった(中へは入れない)
説明板は錆びてはいないが全く読めなかった。
あとで調べたら、コロコロ山古墳という可愛い名前で、1987年に20m西から移築された6世紀後半の一辺30mの方墳とのことだった。
メスリ山古墳と安倍文殊院とは直線距離で600mほどだが、下って上って敷地をぐるりと回る。途中の交差点で振り返ってみたメスリ山古墳。
このあたりから雨が本降りになってきた。
つづく。