墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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特別史跡・文殊院西古墳 文殊院東古墳(閼伽井古墳) 奈良県桜井市阿部

前回のつづき。

メスリ山古墳から下った道をまた上り、振り返っての東側。

 

その背面側。現在地がこの丘の頂上になる。

 

左の茂みが安部文殊院の敷地になる。

 

すると道沿いにあと一歩の場所に来ていたのに探せなかった艸墓古墳(くさはかこふん:カラト古墳)の標柱が。実は道の反対側の住宅街の中にあったことを後から知った。

 

今回の旅で頼りにさせていただいた「奈良の古墳」にも載っていた古墳だが、雨も降っていてリュックから本を出すことが手間と感じるほど余裕がなくなっていました。

奈良の古墳

奈良の古墳

 

 

こちらの方のブログに、わかりやすい行き方が示されています。

石室に入れる古墳(石棺あり)『艸墓古墳』@桜井市 (by 奈良に住んでみました)

 

安部文殊院入口の標識があったものの、それらしき雰囲気がない。

 

と思っていたら、いきなり入口が現われた。

 

日本三文殊第一霊場は他に、京都府・天橋立切戸の文殊、山形県・奥州亀岡の文殊で、お寺のご由緒によると「安倍山崇敬寺文殊院」は、孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立し、かつてはさらに南西300メートルの地に法隆寺式伽藍配置の大寺院として栄えていたそうだ(東大寺要録末寺章)

 

よって、境内にある切石の見事な石室の文殊院西古墳の被葬者も安倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)が有力候補とされている。

 

拝観料は本堂のみが一般700円、金閣浮御堂霊宝館との共通券は1200円となる。

入口のすぐそばに西古墳の石室が開口しているが、まずは奥の本堂を拝観した。

 

靴を脱いで上がると、和室へ通されて御抹茶と落雁をいただいた。

とてもありがたかった。

 

抹茶で心を静めてから、国宝の渡海文殊(とかいもんじゅ)を拝観。建仁3年(1203年)に快慶が造立したもので、本尊の騎獅文殊菩薩像、優填王(うてんおう)像、維摩居士像、善財童子像、須菩提像(仏陀波利三蔵)の5像で”渡海文殊”を構成するが、獅子に乗る文殊様の高さは7mにもなる。

本堂内に舞台に立つように収蔵・展示されていた。他に拝観者もいない状態でしばらく見とれてしまった。

寺宝・文化財 | 安倍文殊院

 

渡海文殊の5像が国宝に指定されたのは2013年2月と最近で、翌年秋の国宝展で善財童子像、須菩提像は上野にお出ましになっていた。

東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 「日本国宝展」

 

そのとき拝見していたので「再会」でした。

 

文殊様にパワーをいただいて、いざ石室へ。

 

入口横に説明板があった。

文殊院西古墳 「願掛け不動」安置

国指定特別史跡(飛鳥時代)

良質の花崗岩石を入念に加工し側壁も弓状態として壁面を調整、左右の石の数も揃え対称に仕上げている。殊に玄室の天井石は一枚岩で約15㎡もありその巨大さに唖然とするばかりである。しかも天井席の中央部分を薄く削り上げ窮隆状とし天井の全体面をアーチ型に仕上げている手法は心憎いばかりである。これらの点で築造技術における古墳内部の美しさは日本一の定評がある。

この古墳は当山を創健した大化改新の左大臣・安倍倉梯麻呂公の墓と伝えられている。

玄室には弘法大師お手作りと伝う平安時代の「願掛け不動」がまつられている。

羨道の長さ8m、幅2.3m、高さ1.8m

玄室の長さ5.1m、幅3m、高さ2.6m

 

 もうひとつ、「日本一美しい古墳」との一文もある説明板。

 

傘をたたんで室内へ。

 

8mの羨道の先の5.1mの玄室にはお不動さんが安置されている。奥壁の切石は、3個・4個・3個・4個と積まれ、石の間の縦のラインが互い違いになるように組まれている。

 

ろうそくを2本灯した。

 

側壁は上に向って内側へ少し傾斜している。

 

横の壁面も精巧に切って積まれている。下部右寄りの縦のラインはデザインとして刻まれている。

 

天井は巨大な一枚岩。

 

玄室から入口方向。 

 

玄門部分の石組み。

 

羨道の側壁も床から天井まで1枚岩だった。

 

羨道の天井で高さが変わる部分の処理。 

 

「 国史跡」が重要文化財とすれば、「特別史跡」は国宝。石舞台古墳の岩の巨大さにも圧倒されたが、文殊院西古墳の精緻な造りも国宝級であると感じた。

 

関東にも群馬や埼玉に素晴らしい石組みはありますが。

国指定史跡 宝塔山古墳 群馬県前橋市総社町 - 墳丘からの眺め

満願寺、八幡山古墳、さきたま古墳群(再訪) - 墳丘からの眺め

 

 

もう一つの古墳は境内西側の斜面、白山堂の隣に開口していた。

 

まずは白山堂に参拝。

 

社殿は室町期建立の重要文化財。

 

そして燈籠が参道のように並ぶ文殊院東古墳(閼伽井古墳)へ。

 

お寺の説明板は石室内の泉について触れていた。

閼伽井古墳(東古墳)飛鳥時代

この古墳は「閼伽井(あかい)の窟」とも呼ばれ、羨道の中程に昔から枯れる事無くこんこんを湧き出る泉があります。この泉に湧く水は「閼伽井(あかすい)」(別名 智恵の水)と呼ばれています。閼伽井とは「仏様に御供えする為の清浄かつ神聖な水」の意味です。

古来より「閼伽井の窟」を参拝すると智恵が湧く事で知られ参拝者が絶ちません。当山

 

中には入れなかったのでフラッシュで。ひとつひとつの石が大きい。

竹が渡されているところが「井」になるのだろう。

 

奥壁は2つの巨石。

 

桜井市教育委員会による説明板もあった。

文殊院東古墳(県指定史跡)

この古墳は、「実隆公記」によれば、室町時代にはすでに開口していた。墳丘は方墳の可能性が強いが、墳丘の形状は不明である。内部構造は南南西に開口する横穴式石室で、石室規模は全長13.om、玄室の長さ4.69m、幅は奥壁部で2.29m、玄門部で2.67m、高さ2.6m。羨道の長さ8.31m、幅は玄門部で1.75m、羨門部で2.04m、を計測する。石室の石材は、玄室はほとんど加工されていない自然石で、羨道は切石の花崗岩である。羨道・玄室ともに遠近感を強調するために入口部より奥を狭くしている。桜井市教育委員会

 

横から見た入口。続く石も少し露出していた。

 

東古墳が7世紀前半、西古墳が7世紀後半と考えられている。

どちらも墳形は不明だが、西古墳は25~30mの円墳と推定、東古墳は10~20mの円墳または方墳と推定されているそうだ。

 

白山堂から本堂方向を見たところ。右手側に東古墳がある。西古墳までは90mほど。

 

山を少し上がったところに平安期の陰陽師・安部晴明(921年~1005年)を祀る晴明堂があった。

 

その前が安部晴明公・天文観測の地だった。

 

雨は続いていたが西にうっすら二上山が見えた。右端は耳成山。

木の枝はおそらく桜。今頃は咲いているはず。

 

帰りはバスの時間が先だったので、桜井駅まで25分ほど歩いた。

 

桜井駅のホームから東側。

 

3つ目の大和八木駅で京都行きの特急に乗り換えた。

途中大和川を渡るとき、東側の車窓に平端から天理に向かう電車が見えた。

 

西側の空は雲間から光の梯子が降りていた。 

 

京都駅に到着。近鉄特急で55分。折り返しは賢島行き。

近鉄改札の目の前が新幹線改札で乗り換えも便利。近鉄に親しみがわいた旅になった。

 

奈良の古墳旅、これにてやっと完了です。

エントリは34本になりました。一応初回に各回へのリンクを追記しました。

これで訪ねた古墳のことはこの先も忘れないことと思います。

最初から目を通していただいた方、誠にありがとうございました。

少しでも興味が湧きましたら、ぜひ現地へ!