墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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尾高惇忠 生家 埼玉県深谷市

前回のつづき。

渋沢栄一記念館から800mほど南東にある尾高惇忠(じゅんちゅう)の生家へ寄った。 

尾高惇忠(1830~1901)は渋沢栄一の10歳年上で、地元で私塾を開き渋沢栄一に論語を教えた学問の師だった。惇忠は妹の千代を渋沢栄一に嫁がせており、渋沢栄一の義兄になる。富岡製糸場の初代場長であり、第一国立銀行仙台支店支配人も務めた実業家でもあった・・・ということをここで初めて知った。

 

ちなみに富岡製糸場は、明治政府が雇ったフランス人のポール・ブリュナが建設地を選び技術者や器械を集め、同じくフランス人のオーギュスト・バスティアン(横須賀製鉄所を建設)が建物を設計したが、尾高惇忠は政府の役人として建設当初から関わり、建築資材の調達に尽力するなどした。初代場長となった後、娘の勇(ゆう)を「工女1号」として入場させている。

建物のしょうかい | 富岡製糸場ホームページ

 

大きな柘植の庭木と立派な板塀のこちらが生家。

 

こちらの見学も無料。道を挟んで数台停められる駐車場がある。

尾高惇忠生家/深谷市ホームページ

 

土間からお座敷方向。

江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれる家で、二階には惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋があるそうだ。

 

こちらもボランティアガイドが解説をして下さるが、あまり時間がなかったので「セルフ」で見学させていただいた。

 

お外へもどうぞ、と促されて裏に出るとなんと立派な煉瓦の蔵があった。

 

ガイドの方の説明抜きなので、詳細は不明。

 

隅などを金属枠で補強している。

 

窓の少ない造り。

 

軒下の段々の数が多い。

 

鬼瓦には富士山と二と流水?

 

主屋の方の鬼瓦にも山と二が。

 

補強された隅。

 

庇のすぐ上の煉瓦には番号が刻印されていた。

 

蔵の入口。格子の中は非公開だが何かが沢山置かれたままになっていた。

 

 主屋に展示されていた「藍玉」 渋沢家の経済を支えた主力商品でもあった。

以下は説明パネルより。

藍玉とは藍の葉を発酵・熟成させた染料である蒅(すくも)を搗き固めて固形化したものです。藍の生産地としては徳島県の阿波が最も盛んでしたが、ここ深谷市北部の利根川沿いの地域でも藍の栽培が盛んでした。利根川沿いの地域は、藍の生育に適しており、良い藍を育てる肥料として必要な〆粕(しめかす)や干鰯(ほしか)を、中瀬河岸場で手に入れることができました。当地でつくられた藍玉は「武州紺」と呼ばれ、衣類を鮮やかな紺色に染め上げる染料として人気がありました。

 

つくり方の説明パネルもあった。

 

染料になる前の工程でこんなに手がかかっているとは知らなかった。

 

「藍つき」などという工程があった。

江戸期の民家をちょっと見るくらいのつもりが、盛り沢山になった。

つづく。