墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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重要文化財・誠之堂 埼玉県深谷市

前回のつづき。

深谷駅で周辺マップをいただき、まずは重文の煉瓦建築から見て回ることにした。

 

重要文化財 誠之堂(せいしどう)

大正5年(1916)竣工。設計は田辺淳吉。

 

場所は、大寄(おおより)公民館の敷地内にある。

誠之堂・清風亭のご案内/深谷市ホームページ

公民館事務室で見学を申し出て、ガイドの方の説明を受けながら回る。

見学無料。

 

誠之堂と清風亭という建物が並んで建つ。はじめに誠之堂を見学。

誠之堂(せいしどう)

この建物は大正5年(1916)年に第一銀行の創設者、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。設計は後に大正建築の名手と称される田辺淳吉、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。

建築面積は113.30㎡、棟までの高さは4.230mを測ります。構造は補強煉瓦造、外観は焼きの異なる3色の煉瓦が組み合わせて積まれ、煙突の直下には煉瓦で描かれた「喜寿」の文字を見ることが出来ます。屋根には天然スレートが葺かれています。

建物の雰囲気は栄一の希望を元にイギリス風農家をイメージしています。室内には暖炉上の栄一のレリーフや古代中国の画法による祝宴の様子を描いたステンドグラスがあり、さらに中国、朝鮮、日本のデザインが取り入れられています。平成9年(1997)、取り壊しの決定に伴って深谷市が譲り受け、平成11年(1999)当地に移築、平成15年(2003)5月30日、国の重要文化財の指定を受けました。

 

建物周囲の地面の砂は市松模様に整えられていて、一瞬そこを歩くのがためらわれた。

 

設計した田辺淳吉は清水組(現、清水建設)の技師長で、晩香、青淵文庫など渋沢栄一に関わる建物の設計に数多く関わっている。パンフによれば「芸術志向が強く、セセッションの旗手をいわれたが、特に小規模な作品に本領が見られる」とのこと。

王子の飛鳥山にある晩香廬・青淵文庫は3か月ほど前に見学した。

重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫) - 墳丘からの眺め

 

漢字で東西南北が書かれた風見鶏。

 

外壁の煉瓦。短辺の方が少し出ていて凹凸を生み出している(ように思えた)

ガイドの方によれば移築の際は外壁を数メートル単位で切り出して当地で組み上げたとのこと。さすがに煉瓦一個一個までには分解できない。

 

解体時、外壁や基礎の各所からは「上敷免製」(つまり深谷市上敷免にある日本煉瓦製造株式会社)の刻印のある煉瓦が発見された。

 

建物には大きなテラスがある。

 

柵のデザインも凝っている。奥のアーチは隣の建物(清風亭)

 

ベランダの向こうはグランドで子供たちがサッカー練習をしていた。移築前も銀行の保養所(清和園)にあったのでグランドに面していたのだろうか。

 

スレートで葺かれた屋根のカーブが美しい。こちらの妻側は煙突部分の壁が少し突き出している。

 

中央部には煉瓦で描かれた喜寿の文字。渋沢栄一は喜寿を契機に第一銀行頭取を辞任したが、この建物は第一銀行行員による喜寿祝いのプレゼントだった。

 

屋根上の出窓はデザイン上の理由のみでついているそう。

  

玄関はこちらの右側になる。

 

 玄関内部。こちらで靴を脱いで上がる。

 

扉上の煉瓦積み。

 

次の間の出窓。

 

次の間の屋根は網代編み。

 

大広間。

 

暖炉の上には渋沢栄一のレリーフ。

誠之堂の命名は渋沢栄一自身によるもので、儒教の教典「中庸」にある「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんでいる。

 

大広間のステンドグラスの図案は森谷延雄によるもの。

躍動感ある踊り。

 

栄一を貴人に見立てて喜寿を祝う情景と考えられている。

 

料理のシーンも。

 

部屋の中には移築時の様子を伝えるパネルが数多く展示されていた。

天井アーチの漆喰模様もオリジナルのものだった。

 

日本煉瓦製造(株)旧煉瓦製造施設のパネルも。

 

周囲の見どころの紹介もあって期待が高まった(この時点ではホフマン窯も見学できるものと思っていた)

つづく。