墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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旧渋沢邸・渋沢栄一生地「中の家(なかんち)」 諏訪神社 埼玉県深谷市

前回のつづき。

旧煉瓦製造施設へ行く前に少し時間があったので、渋沢栄一(1840~1931)の生家や記念館など関連施設も巡ってみた。

このあたりは下記の理由で「論語の里」と呼ばれている(下の案内板から)

栄一は7歳頃から、尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)に論語をはじめとする学問を習いました。生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え、「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれるに至りました。栄一が惇忠の家に通った道はいつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関する史跡が多く残されていることから、それらを総称し「論語の里」と呼んでいます。

 

案内板のあった「中の家(なかんち)」

立派な薬医門がある。

 

正面に主屋。竣工は明治28年。以下はいただいたパンフより。

埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」 旧渋沢邸・渋沢栄一生地「中の家(なかんち)」

この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれている。

渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。代々当主は、市郎右衛門を名乗っていたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られている。

中の家は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助:栄一の父1809頃~1871)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。この家に、後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれた。

 

屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家のかたちを残している。

見学は無料。庭の手入れをされている方がガイドでもあり丁寧で興味深い解説を受けた。

 

明るい陽射しを全面に浴びていた。

以下もパンフの解説の続き。

現在に残る主屋は、明治28年(1895)、市郎により上棟されたものである。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。

栄一は、多忙の合間も時間をつくり年に数回はこの家に帰郷した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえる。

また、中の家は、元治、治太郎たちの人材を輩出した。

昭和53年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。平成12年、同法人の解散により深谷市に帰属した。

昭和26年、埼玉県指定史跡に指定。昭和58年、埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に指定替えされた。平成22年、主屋を中心とした範囲を深谷市指定史跡に指定。

栄一は幕末の青年期をこの家の長男として過ごした。尊皇攘夷論に傾倒した栄一は、高崎城乗取りを計画するが、その計画中止の混乱から文久3年(1863)に満23歳で中の家を離れた。以後、活躍の場を移していったが、多忙の合間を縫って帰省することが大きな楽しみで、特に晩年、諏訪神社の祭礼の日には、無理なやりくりをしても必ず帰省した。

 

明るい室内。見学できるのは1階のみで土間から眺めるだけ。

 

最奥の部屋が渋沢栄一の部屋で、帰郷する栄一のために義弟の市郎(才三郎)が特に念入りに作らせたそうだ。

床柱は銘木の鉄刀木(タガヤサン)

 

手前の部屋の幅広の杉戸も一枚板。

 

土間の梁も太い。こちらの部屋に沢山の写真資料などが展示されていた。

 

藍玉の製造・貯蔵場として使われていたと伝えられる土蔵。

渋沢家の基盤は染物原料である藍の商いにあった。以下は渋沢栄一 - Wikipediaの冒頭部分。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。

 

「晩年、諏訪神社の祭礼の日には、無理なやりくりをしても必ず帰省した」との解説をガイドの方にも伺っていたので、中の家から200mほど南にある諏訪神社へも行ってみた。中の家は他に見学の方もいたが、こちらには誰もいなかった。

 

参道の隣はネギ畑。

 

遠くに独特の形をした荒船山が写った。

 

二ノ鳥居は木造で瓦屋根付き。拝殿は大正5年(1916)に渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進したもの。

 

鳥居の扁額の文字は渋沢栄一直筆。

 

境内はいかにも地元の鎮守社という雰囲気だった。獅子舞は秋の祭礼で奉納される。

 

ちょっと物騒な地名については諸説あるよう。

血洗島 - Fukapedia

 

真っ白な椿が境内を華やかにしていた。

 つづく。

 

※追記 関連エントリのリンクをまとめました。

massneko.hatenablog.com