前々回のつづき。
荒川区ふるさと文化館を出たあと、製絨所跡へ向う前に隣接する神社を参拝した。
素盞雄神社(すさのお神社)
ゆるやかなカーブの屋根を持つ立派な拝殿。
ご由緒。
平成7年に御鎮座1200年祭が行なわれている。もとは小塚の上にあった岩が御神体だったようだ。
拝殿のお賽銭箱の注意書き。包む半紙は初めて見た。思わず一桁多く包んだ。
明かりが灯り始めた社務所。
電飾のように連なる絵馬。子どもの健やかな成長を祈願している。
境内にあった解説板(その1)
素盞雄神社と文人たち
千住宿界隈や隅田川沿岸の社寺には、江戸の文人が残した碑が多く見られる。
この境内にも、文人が建てた二基の碑がある。文政3年(1820)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保12年(1841)に建てられた森昌庵追慕の碑である。
芭蕉の句碑は、谷文晁の弟子で関谷在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は、「江戸名所図会」などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかかわった。
これらの碑は、文人たちの交流を今日に伝えている。荒川区教育委員会
千住大橋に見立てた石橋。
その先には解説板にあった、荒川区指定文化財の松尾芭蕉の碑。
境内にある富士塚。
神社発祥の奇岩がここに眠る? どの石かは判別できなかった。
解説板(その2)
瑞光石(ずいこうせき)
瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
嘉永4年(1851)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)には浅間神社を祀った。
万延元年(1860)に編纂された「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。荒川区教育委員会
富士塚(浅間神社)の鳥居。
富士塚への結界。
寛文13年(1673)銘の庚申塔。
南側、正面の鳥居。
昔から人々の祈りが込められてきた、その神聖さを感じた。
つづく。