前回のつづき。
旧東海道沿いの品海公園から八ツ山通りに戻り、100mほど北へ向かうと通り沿いに神社があった。
利田神社(かがたじんじゃ) 1626年(寛永3年)創立。元弁財天、洲崎弁天と呼ばれていたが明治になって改称。
八ツ山通りからは横向き、境内の鳥居~社殿の軸は通りに並行していた。
ここがかつて岬の先端だったから、と講師の方に教わって理由がわかった。
こちらでカラーの「江戸名所百景 品川すさき」を見ることができる。
海風や潮騒が感じらるような、のどかな風景。冒頭の写真は、手前の船のあたりか。
新鮮な魚介類が手に入る品川宿は食べ物もおいしく、江戸に暮す人々にとっての「リゾート地」のようなイメージだったようだ。
わざわざ電車や飛行機で遠出したり世界の果てまで行かなくても、歩いて旅して楽しめる場所がここにあった。
境内脇にある鯨塚。寛政10年(1798年)に品川に鯨が迷い込み捕獲。浜離宮で11代将軍家斉に上覧した。その骨を集めた塚。
詳しい解説板もあった。
神社の紋は、波をあしらったミツウロコ。
利田神社の正面の道。
上記で東に折れると正面に台場小学校。今や「お台場」といえばフジテレビのある埋立地を想起するが、かつてここにも台場があった。
利田神社の東側の小道を底辺とした小学校の敷地を含む5角形は、お台場跡だった。
こちらの方のブログに安政3年(1856)の江戸図が掲載されていて非常によくわかる。「月の岬」の4番目の画像。
品川の検索結果 : 広重 Hiroshige 「名所江戸百景」 時空map
正門横には第2台場にあった洋風灯台のミニレプリカが置かれていた。実物は明治村に移築されている。
品川燈台(重要文化財)|エリア別建造物|見る|明治村を楽しもう!|博物館明治村
お台場は11基の建設が予定されていたが7基目の着手時に中断、土出し場だったこの場所に「御殿山下お台場」が最後の7基目として築造された。 中断された7基目は「崩れ台場」とも呼ばれたそうだ。
周囲の細道は一回りすることもできる。左が学校敷地で周囲より地盤がかさ上げされている。
5角形の右下の隅。 今回はここでお別れ。
上の写真を振り返った場所にあった小さな神社。グーグルマップには名前がなかった。
ここから先は南品川猟師町を歩く。「漁」でなく「猟」なのは魚だけでなく、カモなどの鳥やアザラシなどの獣も捕っていたかららしい。
目黒川の河口に形成された、先端に洲崎弁天がある長い砂州の背を行く道。ゆるくカーブして古道の雰囲気があった。
説明で使われた天保14年(1843)の地図。上が北。右端の上に突き出た先が洲崎弁天でその下に細長く猟師町が続く。目黒川(品川)を挟んだ左が東海道。川が横切った上が北品川、下が南品川。
山手通りに出る手前で煉瓦塀が残っていた。
つづく。