墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

「しながわ魅力発見ツアー 江戸時代の海岸線跡を歩く」・5 寄木神社 石積護岸 南品川宿問屋場・貫目改所跡 @品川区 新馬場駅界隈

前回のつづき(で今回がこのツアー報告の最終回)

八ツ山通りから寄木神社の境内に入った。神社の向きは反対側、猟師町を貫く旧道が正面となっていた。

弟橘姫と日本武尊による創建と、源義家が戦勝祈願をしたとの伝説がある古社。

 

以下の、しながわ観光協会のサイトの「寄木神社」の項から。

神社の創建は慶長年間(1598~1614)で、江戸名所図会にも描かれている。

猟師町の鎮守様で、現在は荏原神社の末社。

1- 詳細

 

社殿内部に上がらせていただいた。畳敷きの先には土蔵造りの本殿があった。

 

扉の左右には見事な浮き彫り。左扉には天照大神と天鈿女命(あまのうずめのみこと)

 

右扉は猿田彦命で、どちらも伊豆の長八の手による鏝絵だった。

土蔵造りの理由は火事対策であったのではという解説をいただいた。 

 

 社殿の外側にあった解説板。

品川区指定有形文化財 鏝絵(こてえ)天鈿女命(あまのうずめのみこと)功績図

所在 東品川1-35-8 寄木神社

指定 昭和57年2月10日(工芸品第2号)

本殿正面奥の二枚扉の内面にある鏝絵は、幕末から明治にかけて活躍した左官の名工、伊豆の長八(本名入江長八:1815~89)の手になるもので、向かって左扉には上の方に天照大神、下の方に天鈿女命を描き、右扉の方には猿田彦命を描いている。

これは、天照大神が素戔嗚命の乱暴によって岩戸に隠れて世の中が暗くなった時、天鈿女命が滑稽な踊りをして神々を笑わせ、それに誘われて天照大神が岩戸を開き、世の中が再び明るくなったことと、天照大神の子孫が地上に降った際、天鈿女命はこれを妨害した猿田彦命を服従させて道案内をさせたという神話に基づいている。

共に漆喰の壁面に鏝で像を盛り上げ、浮彫風に彩色したもので、製作者の独自の発想と創造による技法である。

平成14年3月28日 品川区教育委員会

 

拝殿内には江戸期の正徳2年(1712)の高札「添浦高札」が納められていた。

御城米船の難破の際の心得や、抜け荷買いの禁止などが掲示されている。

全国津々浦々に立てられたから「浦高札」で、これは正徳元年の浦高札の翌年に追加補充として発せられた「浦々添高札」 

 

こちらの解説板も社殿の外側にあった。

 

海苔を採っていたころのジオラマがあった。千葉県浦安市の昔と同様。浦安沖は昭和40年代に埋立てられたがこちらはそれより早く、オリンピックを目前にした昭和37年には高速道路やモノレールが出来て海苔が採れた浅瀬は埋まってしまったそうだ。

 

豪華な御神輿も。

 

賽銭箱にもあった菊の御門。天皇家とかぶらないように、花を裏側からみた絵柄(なので中央から茎が短く出ている)になっている。

 

子連れの狛犬。

 

その手前の別の狛犬は頭頂部が皿のように少し凹んでいる。先のしながわ観光協会のサイトの解説によれば、昔は皿の部分にロウソクを立てて火を灯し、暗い内から海苔採り等で海に出る船が目印としたと言われているそうだ。

 

現在の目黒川(この河口あたりは古名は品川)は、現在は寄木神社の80mほど南を、西から東へ流れている。

さらに、現在はこの川の真下を首都高中央環状線が通っている。

 

八ツ山通りの橋の南岸近くに浦高札場の説明板があった。品川区に現存する2枚の浦高札のうちのひとつが先ほど寄木神社にあったもの。

 

再び旧東海道から一本東側に並行する細道を行く。大谷石の石がきれいに積まれた家(振り返っての1枚)

 

ゆるやかにカーブする昔ながらの道。

 

道の東側は地面が高くなっている。奥が旧東海道。

 

家と家の間にも石段があった。

 

 高低差の段差が、大谷石の石垣になっている。

 

高低差が背丈以上になるところもあった。

 

石の積まれ方もさまざま。石材によって基本単位の大きさが異なるのか。下段が伊豆石、上段は房州石。

 

ブロック塀を積み足しているところもあった。

 

羊歯とのコラボ。

 

上記の場所あたりで路地めぐりは終了。来た道を振り返ったところ。

 

南品川4丁目から品川警察署へ向う2車線の「南馬場通り」

左右は旧東海道。右前のビルの位置が南品川宿問屋場・貫目改所跡。かつてはこの通りの先(八ツ山通り)は海で、ここが港町品川の中心街だった。東海道が整備された江戸時代でも物流の主役は圧倒的に船であり、品川は宿場町であるとともに港町として栄えていた。

 

上記の反対側、新馬場駅方向。講師の方からこの道が昔の碑文谷道の起点であると聞いたとき、自分の中では小さからぬ感動があった。

この先600m弱、京浜急行をくぐり第一京浜を渡っていくと日本ペイントの煉瓦建物の明治記念館があり、そこには享保21年(1736年)銘の道標「左 ひ文や道:右 めくろ道」が立つ。

 

その先はJR東日本東京総合車両センターの敷地が横たわるが、両サイドで道の傾きは一致するので続いていたと思われる。

 

その先は台地を上る「碑文谷道」が続いていたが、最近になって大規模再開発で途切れてしまった。道はさらに新幹線・湘南新宿ラインで分断されているが、その延長線上には大正期の道標が残っている。

 

さらに道は貴船神社へ。

 

さらにその先の庚申塔の脇を通り大崎中学校に突き当たったところで一旦痕跡がなくなる。

碑文谷道は碑文谷の円融寺まで続くらしいので、引き続きのテーマとしたい。

思いもよらず、その道の起点に立てたことが嬉しかった。

 

ツアーの最後は新馬場駅入口近くにある蓮長寺。

 

こちらの境内に、非常に立派な井戸があった。

以下は再び、しながわ観光協会のサイトから。

1- 詳細

この井戸は品川に現存する江戸時代の古井戸で最も立派なものであり、刻まれた字は「新宿 千代女」

品川宿を構成する3つの宿のひとつ、歩行新宿・かちしんじゅく(宿場が本来負担する伝馬と歩行人足・かちにんそくのうち後者だけを負担する新しい宿場)の女性が寄進した。今でも滔々と水が出た。

 

ツアーは新馬場駅南口で終了。

 

実はこの駅はもとは目黒川を挟んだ、北馬場駅と南馬場駅という別の駅だった。1904年に目黒川の北と南で開業し、1976年の京浜急行の高架化に伴って川をまたぐ一つの駅に統合された。

自動改札を抜けてからもこの空間がある。

 

ホームへのエスカレータから改札口。この駅を降りるときに北口と南口を間違うと大変なことになるそうだ。

 

各駅停車しか停まらないが、ホームがやたらに長い。ホームは目黒川と山手通りをまたいでいた。

 

以上で「しながわ魅力発見ツアー 江戸時代の海岸線跡を歩く」のレポートは終了です。説明いただいた講師の方、品川区の学芸員の方、ボランティアの方々のお蔭さまで充実したツアーを楽しむことができました。誠にありがとうございました。