墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

佃島砲台跡~月島路地 東京都中央区月島

再び月島にて。

佃大橋の南側のたもとに、これまで気づかなかった説明板がありました。

f:id:massneko:20210312141247p:plain

佃島砲台跡
所在地:中央区月島1丁目1・2・13・14番地域
江戸時代末期、佃島の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台」が築かれました。
江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永6年(1853)6月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から2か月後の同年8月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場(砲台)築造を始め、翌年11月までの短期間に「第一~第三・第五・第六・御殿山下」の6基(品川台場)を完成させました。
佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約10年後の元治元年(1864)のことでした。砲台新設の契機となったのは、文久3年(1863)に勃発した薩英戦争や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体制を敷くため、品川から越中島の間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。
佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中ニアリ。東西凡三拾九間(約70m)、南北凡四拾間(約72m)、面積凡千三百七拾坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治ニ至リ修理ヲ加ヘ、陸軍省ニ属ス」とあります。
明治期には、陸軍省所管の砲台となりましたが、明治20年(1887)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地(現在の月島1~4丁目)の埋め立てが進められ、工事の過程でその姿を消しました。
平成23年3月 中央区教育員会

 

3年前に佃島界隈をエントリしたときに添付した、明治9~19年頃の佃島地図。

左下に”お台場”があります。

f:id:massneko:20210315112747p:plain

 

現在の地図にもマークされていました。

f:id:massneko:20210315112832p:plain

 

 

説明板前の十字路が微妙に盛り上がっているところに、砲台跡が感じられました。  

f:id:massneko:20210312141300p:plain

 

月島の路地を彩っていた花。 

f:id:massneko:20210311112956p:plain

 

「わたし児童遊園」には満開のハクモクレン。

f:id:massneko:20210311113249p:plain

f:id:massneko:20210311113013p:plain

 

その公園の向かいあたりの、要塞のような建物。

f:id:massneko:20210311113043p:plain

 

そこから西仲通り側に50mほどの角にはモジャハウス。

f:id:massneko:20210311113059p:plain

 

もしかして元は植木鉢?。谷中のヒマラヤ杉のように。

f:id:massneko:20210311113117p:plain

 

店舗はバラエティショップでした。

f:id:massneko:20210311113129p:plain