前回のつづき。
穴八幡宮参拝後に戸山公園へ向かった。馬場下町交差点から早稲田通りを200mほど登っていくと左手に戸山公園の北の入口があった。
案内図を見ると複雑な形をした公園であることがわかる。
箱根山を目指して歩く。途中に子供用のプールもあった。
公園内の道路を一本渡ると、箱根山北入口の案内板があった。
谷底のような場所から見上げると結構な斜面。
陸軍戸山学校の野外演奏場跡。
元陸軍の有志が立てた石碑があった。
刻まれた歴史。
この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された明治6年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌7年陸軍戸山学校と改称されて以来約70年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である。この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る。
昭和42年11月 元陸軍戸山学校縁故有志一同
その背後に山の手線内最高峰の箱根山があった。
手すりのある階段があった。麓には説明板も。
箱根山地区の歴史
この地区は、その昔 源頼朝の武将 和田左衛門尉義盛(さえもんのじょうよしもり)の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。
寛文8年(1668)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約13万6千余坪(約44万8800余㎡)に及び「戸山荘」と呼ばれるようになった。
この「戸山荘」は寛文9年(1669)に工事を始め、天和(1681~1683)・貞享(1684~1687)の時代を経て元禄年間(1688~1703)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り、琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、
、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した25の景勝地が造られていた。
なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789~1800)の初め第11代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池はまさにこの荘を以って第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。
安政年間(1854~1859)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(1868)を迎えた。
明治7年(1874)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後や国有地となりその一部が昭和29年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。
平成2年3月公園整備を記念して 東京都
山頂からの眺めは樹木ばかり。
桜の木が多いので春は見事だろう。
木々の間から新宿高層ビルの一角が見えた。
戸山公園サービスセンターへ申し出れば「登山証明書」をいただける。
山頂から見下ろした場所に教会があった。
山腹から。
教会建物は斜面に建っている。
斜面の下の土台は陸軍時代からのもの。
半円形の石組みが美しい。
かつては将校の集会場だったようだ。
右手の階段を登ると教会付属の戸山幼稚園で遊具がある。
塞がれた窓の跡が重々しい。
階段上の教会・幼稚園。
教会入口の案内。
教会を一回りしていると巨木があった。
背後は都営戸山ハイツ。
団地側から見た音楽堂跡。
山と谷が交錯する複雑な地形だった。
この季節、サルスベリの色がとても目立っていた。