墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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日本民家園・1 神奈川県川崎市多摩区枡形

前々回のつづき。

枡形山を南側に下りて、山麓にある日本民家園を訪ねた。

上記の公式サイトの案内

川崎市立日本民家園は、急速に消滅しつつある古民家を永く将来に残すことを目的に、昭和42年に開園した古民家の野外博物館です。東日本の代表的な民家をはじめ、水車小屋・船頭小屋・高倉・歌舞伎舞台など25件の建物をみることができます。このうち、18件は国や県の重要文化財として指定を受けており、民家に関する民俗資料なども収蔵し、日本を代表する古民家の野外博物館の一つなっています。

古民家では正月や節句などの年中行事展示や、毎日3~5棟ずつ囲炉裏に火を入れての床上公開を行っています。なお、正門の本館展示室では、これらの古民家に関する基礎知識を学ぶことができます。 

 

入口建物でチケットを買う。入園料一般500円也。

園内は5つのゾーン(民家5件ほどのゾーンで広くはないが)に分かれ 、東口から「宿場」「信越の村」「関東の村」「東北の村」「神奈川の村」となる。

この東口の建物内には展示館もあり、構造物の説明や大工道具、模型展示を見ることができた。

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展示物を見始めたところで、5分後の11時から無料のガイドツアーがあるとのアナウンス。早速集合場所の「宿場」の原家の前に行った。

ボランティアのガイドの方に30分ほど 、「宿場」と「信越の村」の建物の解説を受けた。聴講者は始めは自分一人、途中から二人になった。

 

・原家住宅 1911年(明治44年)築 市指定重要歴史記念物

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重厚な玄関の屋根。

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下記も公式サイトから。

この家は川崎市中原区小杉陣屋町に所在した大地主の主屋です。
原家の伝承によると、当住宅の建築は22年を要し、驚くほど慎重に家づくりを行ったことが伺われます。
主屋はケヤキ材をふんだんに使用した木造・二階建て・桟瓦葺き・延べ117坪(387㎡)の大規模住宅で、南に面しています。
2階に入母屋造りの大振りな屋根をかかげ、1階は正面の式台(格式ある玄関)に唐破風(からはふ)屋根設けたり庇屋根も瓦葺きとするなど、重厚で格式を備えた外観が特徴といえます。
内部1階は正面向かって左手(西側)に土間・台所の作業空間、その右手(東側)に前後2列・左右3列の居住空間があり、2階は家族の生活空間となります。
1階は天井が高く、柱も太く、丈の高い差鴨居(さしがもい)が多用されており、豪快な空間構成が印象的です。一方2階は室の大きさと天井高が適度に抑制され、生活部分としての落ち着いた空間を作り出しています。
木工技術に関してはすべてに渡って精度が高く巧妙であるといえます。大振りな屋根は出桁造(だしげたづくり)による二軒(ふたのき)構造でしっかり支えているように見えますが、実際は屋根裏の跳木(はねぎ)や梁が荷重を負担し、出梁(だしばり)(腕木)は見せかけのつくりとなっています。また、柱の前後左右に差鴨居が取り付く場合の「四方差し(しほうさし)」技法や、欅の厚板を用いた縁板が反ったり隙間を生じたりしないような複雑な加工など、目に見えない部分で多大な配慮が認められます。

 

この建物のみ明治にはいってから(後期)の建物。原家は肥料の原料財を築いた家だそうだ。所有地の裏山から伐ったケヤキを使用。太い大黒柱は畳の所までせり出していた。

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迫力のある、鴨居の一枚板。

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一時は宿屋として使われたこともあるという。圧倒された。

 

・井岡家住宅(商家) 17世紀末期~18世紀初期に築造 県指定重要文化財

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公式サイトより

この建物は奈良の柳生街道に面した商家でした。古くは油屋を営み、のちに線香屋としてその製造販売を行っていました。

外観は正面に庇を設け、吊上げ式の大戸、格子、揚見世(あげみせ)を備えており、商家の面影を伝えています。また、柱などを塗り込んだ外壁や、瓦葺屋根は、防災を考慮した町屋の特徴をよく現しています。内部は一方を通り土間(とおりどま)とし、居室部は土間に沿って縦一列に三室を並べ、「つし」と呼ばれる中二階(物置)を設けています。正面左側のミセは商いの場で、右側のシモミセは品物の取引に、折りたたみ式の揚見世は品物の陳列に使われました

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奈良にあったので、鹿除けのために格子が太いそうだ。

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立派な竈(カマド)。右の大かまどは荒神(火の神)を祭るもので、正月の餅つきのときしか使わないそうだ。またこの家には囲炉裏がない。

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囲炉裏は江戸時代以降東日本で多くしようされたと説明を受けたが竈と囲炉裏の話は奥深い。検索したら横浜市歴史博物館のサイトの説明がわかりやすかった。少し長くなるが下記に転載。

古代のレンジ台「カマド」

カマドは漢字では「竈」と書き、上にお鍋や釜を載せ食べ物などを煮炊きするときに使う施設(道具)のことをいいます。また、カマドの他に「へっつい」や「くど」とも呼ばれています。カマドは釜を載せる所という意味(釜所=かまどころ)で、「へっつい」とは、へつい「竈(へ)つ霊(ひ)」(かまどを護る神様)という言葉が促音(そくおん)化したものでです。また「くど」はもともとカマドに取り付けられている煙の排出部分のこと指す用語でした。これは「竈」という字を分解してみると良くわかりますが、穴+土+黽(べん=カエル)となり、土の部分にあけられたカエルの(巣穴のような)穴、まさしく煙道(えんどう)の姿がうかがえます。「へっつい」「くど」のどちらの言葉も、どういうわけかもともとの意味はさておいて、カマドそのものを指す呼び名として使われるようになっていったようです。 カマドは古墳時代の中ごろ(今から約1,600年前)につくられ始めました。それまでは、竪穴住居の中心付近に炉(ろ=囲炉裏)をつくっていましたが、この頃になるとカマドにとってかわられます。カマドは、竪穴住居の壁に接して掘り込みを設け、シルトや粘土などを用いてこれを土饅頭のように覆(おお)って、その上面に土器が据えつけられるような穴と焚き口の穴をを穿(うが)っています。また、建物の外側に煙を排出するための煙道(えんどう)という仕組みも設けられています。こうしたカマドの他にも、持ち運びが可能な置きカマドというものも使用していたようです。 古墳時代の中期以降日本では、カマドは長い期間使用されることとなります。昭和に入ってからも第二次世界大戦終戦後までは場所にもよりますが一般的に使用されていました。しかし、終戦後から経済成長期にかけて、炊飯器やガスコンロに取って代わられ、現在では、復原・保存された古民家などに残されるほか、ごく一部の人が使用しているにすぎません。 また、長い期間日本で使用されていたと説明しましたが、日本全国でカマドが使用されていたわけではないようです。たとえば江戸時代以降には東日本地域においてはカマドではなく、囲炉裏(いろり)が多く使用されていたようです。囲炉裏の場合、通常居間の中央に設置され、調理用に使用するだけではなく、暖房器具としても利用できます。もちろん照明にもなります。こうした点が西日本より比較的寒い東日本に適していたものと考えられます。これに対しカマドは通常台所に設置されます。もちろん、カマドと囲炉裏を併用して使用している地域もあります。 また、当時の食生活にも関係していたようです。西日本地域では、強飯(こわいい)、東日本では雑穀のお粥などを主として食べていたようです。前者は甕と甑を使用してお米を蒸したもので、カマドを使って作るのに適し、お鍋では作ることが難しいものです。後者はカマドでも作れますが、甕や甑のようにどちらかというと縦長の調理用具ではなく、ナベのような横に広がった調理道具の方が調理しやすいようです。  では、どの辺りがそれぞれの道具を使用していた境界線となるのでしょうか? カマドと囲炉裏の分布(使用)範囲については、両者がともに分布しているエリアがありすっきりとした線引きはできないですが、概ね北緯40度が境になっているようです(後略)

http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/mb14/tame33.html

 

屋根は平瓦が主だが、中心4列と左右2列ずつは本瓦(丸瓦)が使われていた。軽くしつつも飛ばないようにの工夫だったようだ。

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・三澤家住宅(商家:薬問屋→旅籠) 19世紀中期に築造 長野県伊那市西町から移築 県指定重要文化財

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見どころは屋根。栗の木の板を重ね、下の写真のように重石だけで留めている。

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屋内から見上げた、屋根の裏側。全部で2000枚(8000枚だったかも。メモ取り忘れました)あるが、一定期間を経ると板の裏表を返していくのだそうだ。

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下記は公式サイトより

この建物は、中山道から分かれる伊那街道の宿駅、伊那部宿(いなべじゅく)にありました。農業を主とし、代々組頭をつとめてきましたが、江戸時代の末に製薬・売薬業を始めて成功しました。

外観上の特徴は、石置板葺(いしおきいたぶき)のゆるい切妻造屋根と上手の門構え、それから式台玄関(しきだいげんかん)です。板葺の屋根は良材に恵まれた山間部の地域性によるものです。間取りにはこの宿場の半農半商的性格が現れています。通り土間で大戸口から敷地奥へつなぐのは町屋の特徴です。一方、土間後部をウマヤとし、囲炉裏のあるオオエを中心に構成する点はこの地方の農家と共通しています。

ボランティアの方々は交代で毎日来て囲炉裏に火をともすのだそうだ。そのおかげで家が「生き続けている」 家々を3,4人ずつが守られていた。

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江戸時代では、旅籠しか2階屋を認めていなかった。

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屋内に飾られていた薬屋時代(明治期)の看板。右下の「岸田吟香」は画家の岸田劉生の父で、ヘボン氏(ローマ字の)に目薬の製法を教わったのだそうだ。

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(ヘボン氏といえば明治学院大学の創始者でもあった。港区白金台のキャンパスにあるインブリー館も見事でした)


 

こちらは旅籠時代の看板。江戸へ向かう人が見る面は、どの店もひらがなで、京へ向かう人が見る面の店名は漢字で書かれていたそうだ。わかりやすい!

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つづく。