10/5の日曜日、台風が近づく中での雨天だったが、前日郡山往復で使ったJR東日本の「週末パス」がフリーエリア2日間乗り放題で、エリアに東京地区も含んでいるため、翌日も結構遠くまで往復できることを「発見」し、雨天墳行した。
石室なら雨でも影響は少ないだろうと思い、群馬県が誇る3大(?)石室へ。ただし、今回は単独墳行。
折角なので大宮・高崎間は「リゾートやまどり」(快速・全席指定)に乗ってみた(指定券520円)
10月~11月の土日で8回しか運行しない臨時列車だったが、雨しかも翌日台風なので、一車両に3組~数組でガラガラだった。
先頭車両は埋まっていた。運転席のすぐ後ろに3人×2の談話室のような部屋があるが、常に見られている形になるので居心地悪そうだった。
畳敷きで和める部屋も。「上州かるた」が常備されていた。
キッズルームも。こちらは人気だった。
大宮から70分ほどで高崎に到着。信越本線の横川行きに乗り換えて2駅目の群馬八幡(やわた)で下車する。徒歩25分の距離だったのでタクシーに乗った。
1メーターで観音塚考古資料館に到着。
こちらで事前知識を得て、懐中電灯も借りてと思っていたら、まさかの休館。
10/4~10/10までは展示替え期間だった・・・事前確認不足。
「鏡よかがみ~人々の心を支えた鏡たち」展が10/11より開催される。あの「まりこふん」さんも初日に観音塚古墳に来るではないか。一週早かった。
雨の中、気を取り直して、資料館にサインのあった観音塚古墳へ歩き出す。
住宅の向こうの茂みに向かって行くと、古墳に突き当たった。
上記写真の左側のスロープを上がると古墳の基壇のようになっていた。右が後円部、左が前方部。
まずは墳丘へ上がらせていただいた。
くびれ部に残る葺き石(?) 墳丘の向こう、斜面の下にも宅地が広がっていた。
くびれ部から前方部。まずは前方部へ。
前方部から後円部。
前方部の裾方向。裾は左右に大きく広がっている。
前方部の裾側の眺め。晴れていれば浅間山が見えるはず?
前方部から右裾方向の眺め。こちらも、遠くに十石峠や金峰山が望めるはずだが視界は限られていた。
後円部の石室の上あたりは、立ち入り禁止のフェンスがあった。
フェンスの下に降りていくとありました、石室入口が。
雨宿りの動物等がいないか注意しながら接近。
暗くて中が見えない。手持ちの手回し式懐中電灯はLEDの光が弱すぎた。
じりじしと奥へ進むと、玄室があった。
入口からフラッシュ撮影。一瞬全体が見える。
玄室内部。
最奥の石壁。
左右の石も巨大。
きれいに組み上げられている。
奥の石壁から入口方向。
巨大な天井石。
入口付近から。石室に感動した一方で、何事も無く出られてほっとした。
石室を出た正面が広くなっており、道路からの石段や説明板があった。この天候で誰にも会わなかったが、翌週はコンサートで盛り上がるのだろう。
詳細な説明板。日付が新しい。
国指定史跡 観音塚古墳
所在地 高崎市八幡町観音塚1087番地
指定年月日 昭和23年1月14日
本古墳は、高崎市街地西方の八幡丘陵に所在する前方後円墳である。墳丘長は現状105mで、周囲に堀を巡らす。6世紀末~7世紀の築造で、前方部の幅や高さが後円部を凌ぐのは、前方後円墳終末期の特徴である。
後円部南に開く両袖式の横穴式石室は、全長15.3m、玄室長7.1m、同幅3.4m、同高2.8mを測り、最大で10畳大の巨石を見事に組み上げた、日本を代表する巨石石室である。石材は北方を流れる烏川の上流から運搬したと見られる。
1945年、防空壕の掘削で多量の副葬品が出土し、一括して国重要文化財に指定されている。銅製容器、鏡、装身具、武器、武具、馬具、須恵器など30種300点あまりを数え、なかでも銅承(どううけ)台付蓋椀や刀装具、透彫のある杏葉(ぎょうよう:馬具の一部などは、日本の後期古墳出土品のなかでも名品として知られる。
八幡台地においては、平塚古墳(105m、5世紀後半)→八幡二子塚古墳(66m、6世紀前半)→観音塚古墳と、三代にわたる前方後円墳が確認できる。また、北方の剣崎長瀞西遺跡(5世紀後半)では朝鮮半島系渡来人の実在を示す資料が出土している。八幡台地を拠点にして、古代碓氷(うすい)、片岡郡域に勢力を張り、渡来人を配下にして地域経営を行った東国有数の首長像が推定できよう。
なお、出土品は観音塚考古資料館に収蔵・展示されている。
平成26年6月30日 高崎市教育委員会 設置協力:高崎市観音塚考古資料館友の会
以下はWikipediaより。
墳丘長105メートル 高さ14メートル 6世紀末~7世紀初頭
高崎市の西方、北側を東南流する烏川と南側を東流する碓氷川とに挟まれた東西に長い帯状の台地上に所在する。
この古墳の墳丘は、前方部は4段、後円部は3段構成で、横穴式石室は第1段(基壇)の上に乗る形となっている。墳丘と石室は高麗尺を使って作られていたと考えられ、どちらの規模も35の倍数になっている。横穴式石室は全長15.8メートルを測る巨石使用の大石室で、最も大きい石材は4.5×3.4メートル以上、重さ約50トンにも達する。その壮麗さから「群馬の石舞台」とも呼ばれている。
綿貫観音山古墳の石室全長(12.7m)を凌ぐ。
埼玉県の八幡山古墳の石室(16.7m)に少し届かない。
ちなみに、ウィリアム・ガウランドが調査した見瀬丸山古墳の石室は全長28.4mとのことなので、それがどれほど巨大かも実感した。
石室を堪能した後、道に出て周囲を一回りした。道がくびれに合わせてカーブしていた。
きれいに下草が刈り込まれていて、墳丘の形がよくわかる。
前方部の裾には古い説明板もあった。
前方部下部の直線。
後円部の脇は、一部墓地になっていた。
資料館には入れず、眺望もなかったので、ぜひまた晴れの日に再訪したい。
つづく。