前回のつづき。
今回探訪の総社古墳群の盟主、宝塔山古墳へ。
愛宕山古墳から中学校グランド沿いの細い道をクネクネ行くと、四隅を石垣に囲まれた古墳の角に出くわした。
一辺55mの大きさ。
別の隅には墳丘頂上(11m)への上り口もあった。
墳丘上には「宝塔」が立ち並ぶ。
松の木越しに、隣地の寺の屋根が見える。
別の上り口から。金網の向こうに石室入口があった。
堂々たる正面。
箒と塵取りが常備されていた。
説明板もあった。
(国指定)史跡 宝塔山古墳 方墳 一辺55m 7世紀末~8世紀初頭
一辺の長さ約55m、墳丘高11mの規模を誇る方墳である。この規模は全国的にみても大きい。
主体部は墳丘基壇上に造られた横穴式石室で、羨道、前室、玄室の三室に分かれている。石室の壁は精巧に書こうした切石を使用して積み上げ、随所に切組積の手法も見られる。特に天井石及び玄室入口の玄門の加工はみごとである。
石室の規模は、全長12.4m、玄室長3.3m、同奥幅3.02mである。玄室には家形石棺がある。その底部は四辺とも格狭間の形にくりぬかれ、古墳への仏教文化の影響を物語っている。この古墳は県南古墳の最終末期に造られたもので、7世紀末から8世紀初頭の頃に位置づけられる。
復元図はピラミッドのような形。
開口部が大きく、奥まで見えたので心穏やかに入室させていただいた。
精巧な、素晴らしい石組に言葉がない。
さまざまな形に切られた石がパズルのように組み合わされている。
このような組み方であれば地震がきてもびくともしないだろう。
ぴったり。あらかじめ集めた石の積み方を計画し、角と整えないと出来ない技。
鉄筋コンクリのビルが40年ほどで建て替えられる現代と、1200年を経て古代から残っているということを比較してしまう。
天井石は巨石を何枚か横に渡している。
入口近くの壁は湿ったところもあったが、その他は壁も地面も乾燥していた。いまだ雨漏りなしという技術!
こんな貴重な場所に自由に入れるとは・・・
フラッシュで。羨道の高さは2m弱。ここなら住める?
玄室の石棺。
石棺の左上。
右上。3つの面が垂直に交わる角。
石棺の位置から見た石室入口。
フラッシュなしで。10mほどだが遠く感じる。
宝塔山古墳の隣の光巌寺(こうがんじ)
こちらの長屋門から入ったが、裏口側にあたったようだ。
大きな本堂。この他にも立派な楼門や霊廟がある。
江戸時代初期にこの地を治めた総社の領主の秋元氏の菩提寺。秋元氏は愛宕山古墳の項で見た天狗岩用水を開削しており、宝塔山古墳の墳丘上のお墓も、秋元家代々のものだった。
ここ総社古墳群(6世紀末~8世紀初頭)から12kmほど北、利根川沿いに遡ると「鎧を着た武人」が金井東裏遺跡(古墳は5世紀後半、噴火被災は6世紀初頭)
まだレプリカも見れてないですが、講演を聴きました。
また、ここから6kmほど南西に保渡田古墳群(5世紀後半~6世紀前半)がある。
そして保渡田古墳群と間の直線上、総社古墳群からたった2kmの場所に上野国分寺、国分尼寺跡(8世紀中頃)があり、さらにそのほぼ中間の1kmもない場所に山王廃寺(7世紀後半の群馬県内最古の寺院。現、日枝神社)がある。山王廃寺には塔の心礎が残っている。
公益財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団|群馬の遺跡・出土品|群馬の遺跡案内|中毛地域 総社古墳群と山王廃寺
上記の遺跡群間には行く手を遮る大きな河川はなく、それぞれは深く関連していたはず。周囲には他にも沢山の遺跡がある。「古墳王国」群馬県、奥深いです。