前回のつづき。
この日に見た木更津の古墳(祇園・長須賀古墳群とも)は、すべてもとの全長80m以上。
高柳銚子塚古墳 墳丘長142m
金鈴塚古墳 墳丘長 95m
稲荷森古墳 墳丘長 80m
浅間古墳 墳丘長 80m
(上記の他にもの祇園大塚山古墳:100m、酒盛塚古墳:90~100mも存在したが消滅した。祇園・長須賀古墳群 - Wikipedia)
80m~というサイズは関西の大古墳に比較すると小さいが、現地で目の当たりにすればその迫力を感じ取れる。
千葉県内では三之分目大塚山(123m)や、姉埼二子塚古墳(114m)、成田ニュータウンの公津原8号墳(85m)等に行くと、墳丘上の草木が刈られているので実感できる。
三之分目大塚山古墳 (再訪) 千葉県香取市小見川地区 - 墳丘からの眺め
姉崎二子塚古墳 姉崎神社 大覚寺山古墳 千葉市埋蔵文化財調査センター - 墳丘からの眺め
船塚古墳(公津原8号墳) 成田ニュータウンの古墳⑥ - 墳丘からの眺め
ちなみに少し遠くなるが、茨城県石岡市の舟塚山古墳に行けば200m近い大きさを堪能できる。
舟塚山古墳、府中愛宕山古墳、三昧塚古墳、富士見塚古墳 (5/6) - 墳丘からの眺め
(探訪のしやすさでは、公園になっている成田の船塚古墳・赤坂公園内ですが、眺めの良さでは石岡の舟塚山古墳をお奨めします)
残念ながら木更津の古墳群はすべて開発の波にのまれて直径20~40mくらいの痕跡の丘が宅地や畑地にまぎれている状態だが、100年前までは4列に連なる砂丘上の微高地に500m~1kmの間隔で威容を誇っていた。
千葉県内の古墳群の規模順位では、富津市の内裏塚古墳群、市原市の姉埼古墳群に続く3番目の規模となる(数としては公津原~龍角寺に連なる古墳群が圧倒的だが)
内裏塚~木更津(長須賀)~姉埼と、3つの大古墳群がすべて東京湾沿岸の古東海道沿いに並んでいる。
さらに、当地の地名には、ヤマトタケルが弟橘媛の運命を悲しんでしばらくこの地を離れなかったので「君去らず→木更津」になったり「君津」があるとか、妃の袖が海岸に流れついたから「袖ヶ浦」になった、という由来が物語のように残っていることが、とても興味深い。
対岸の横須賀の走水神社には古事記の歌碑がある。入水のときに詠んだ歌があることで心を揺さぶられ、本当にあったこととして感じてしまう。
ヤマトタケル尊の陵墓は、宮内庁によって三重県北部の能褒野王塚古墳(のぼのおうつか)と治定され管理されている。
だがその人物像はヤマト王権が成立する過程で活躍した「複数の英雄を統合したもの」とも言われており、千葉県東京湾沿岸のこれらの古墳には、そのモデルも眠っていたのでは・・・とか想像を膨らませることもできる。
馬来田国(まくたのくに)の古墳の概要は下記のサイトにまとまっている。