前回のつづき。
小坂町の康楽館で芝居を楽しんだ後は、車で16分の場所にある国特別史跡・大湯環状列石を目指した。
まずは資料館(大湯ストーンサークル館)へ。着いた時には雨脚が強くなっていた。
建物前には円形の屋外広場”縄文劇場”、中央に日時計状の組石が再現されている。
エントランスの様子。展示室観覧は一般300円。
最初にジオラマを。
大湯環状列石は「野中堂」と「万座」の2つの遺構(環状列石=ストーンサークル)を中心に構成される。
どちらも縄文時代後期(約4000年前)の遺跡で、周囲に高床建物がある右のほうが万座環状列石だが、野中堂環状列石の周りにも建物跡が発見されているそうだ。
グーグルアースで。
現在2つの環状列石の間に県道66号が通っているが、両方の円の中心を結ぶ直線を西方向が、ちょうど夏至の日没地点となる。
構造と規模の解説。
環状列石の構造と規模
野中堂環状列石と万座環状列石は、ほぼ同一の構造で、いずれも1~2m規模の配石(組石)遺構100基以上が二重の環状に配置され、さらに内帯・外帯間の特殊な位置に「日時計状組石」1基がつくられています。
また、万座環状列石の北、南、南南東には出入口があり、野中堂環状列石でも南、北北西方向の出入口が確認されています。
野中堂環状列石の規模は最大径44m、万座環状列石は最大径52mです。
環状列石を形づくる配石(組石)遺構は、内帯及び外帯に一様に分布しているわけではなく、内帯が6群に、外帯が12または13群に群衆しています。
どちらも直径50m前後の同心円状の構造で、人頭大の石10個~20個から成る配石遺構の集合体が万座環状列石で109基、野中堂環状列石で61基あり、もとは合わせて200基以上あったことがわかっているそうだ。各配石遺構の下からは墓穴が検出されている。
石の合計は約8500個にのぼる。
出土した縄文土器も壮観。
形や色、模様のバリエーションは豊か。
一般的には「十腰内式土器」と言われるが、花弁状の文様やS字を横に連続して施文したものなどは「大湯式土器」とも呼ばれるそうだ。
こちらは縁が3ヶ所飛び出た、基台のある鉢。
細い溝で浮き出す美しい模様を備えた壺。
ベンガラや朱彩壺も。
そして土偶。 腕と脚のセットをわかりやすく配置したもの。
大きさや形はさまざま。
首から下がポツポツなもの、グラマラスなもの。
ポツポツ+グラマラス+仮面?
異形の仮面も。
こちらは全国的にも有名な「土版」(鹿角市指定文化財)
「どーもくん」のような形で、人間の体を表現していると考えられているそうだが、大きな丸が「1」、上部左右で「2」、中段左に「3」・右に「4」・中央に「5」
裏側上部に3+3で「6」と、数を表しているとも言われている。
https://jomon-japan.jp/kids/map/oyu/
現地での愛称は「どばんくん」
「縄文時代と巨大施設」の解説。
縄文時代前期(約5000年前)にピークに達した気温は中期、後期と次第に寒冷化し、食料の採集が厳しくなりました。中期まで栄えた大規模集落は小規模になり、集落の分散化が起こります。このたえ、離れ離れになる同族の人々の結びつきをさらに強める必要が生じました。
環状列石や縄文土籬(どり)、環状木柱列(ウッド・サークル)のような巨大施設は、それをつくり、利用する人々の精神的結びつきを再確認し、日常生活での共同意識を高めることを目的に建設されました。
「大規模配石遺構・環状列石」の解説。
大規模配石遺構・環状列石
北海道、東北地方北部、中部地方は、配石遺構の多い地域として知られています。配石遺構には集石遺構、組石遺構、環状列石など様々な形態、規模のものがあります。
環状列石のような大規模配石遺構は、縄文時代後期(約4000年~3500年前)の頃に多くつくられます。環状列石には「忍路(おしょろ)型」「小牧野型」「大湯型」など数種類のタイプがあり、集団墓、まつりの場、あるいは集会広場として利用されました。
建物内には土器づくり、勾玉づくりなどの体験もできるようだ。
一通り見て回ったところで、いざ現地へ。