前回の湯島天神への道程は、御茶ノ水駅から歩いてみた。
駅は現在改良工事中で、2020年までに橋上駅舎に生まれ変わる予定。
線路の右は、お壕の上に仮設された工事用のスペース。
現在の聖橋口への跨線橋。丸い屋根が可愛らしいがもうじき取り壊されるのだろう。
聖橋を渡って、湯島聖堂を右手に見ながら直進すると緩やかな下り坂。
すぐ先を右に曲って100mほどには神田明神がある。
下りきった清水坂下交差点に周辺案内図があった。周りを見ると、なんと坂だらけ。
湯島天神へは道なりに清水坂を上っていくが、周りの坂も寄り道(寄り坂?)してみることにした。
坂下から見た清水坂。
坂の中腹に説明板がある。
清水(しみず)坂 文京区湯島2丁目1と3丁目1の間
江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超(だいちょう)和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。
大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。
そこで、町の人たちが清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下の清水坂の石柱を建てた。
文京区教育委員会 平成14年3月
坂上から見た清水坂。
清水坂の70mほど西に並行する横見坂。
横見坂の説明板。
横見坂(横根坂)
「御府内備考」に、「右坂は町内より湯島三組え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かって樹木谷といわれ、樹木が繁っていた。この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の講師として移って行った。
その作品「春」の中に、「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・・大根畠は麴の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麴室には最適で「文政書上」には、百数十軒の麴屋が数えられている。
文京区教育委員会 昭和56年3月
神田明神前、麴室のある天野屋は「百数十軒」 もあった麴屋の、最後に残った一軒であった・・・(?)
下から見る横見坂。富士山が横(左)に見えたという面影は全くない。
蔵前橋通りの緩い坂(新妻恋坂)を東に下りていくと、 北に上る階段道が。
登った先は妻恋坂だった。
振り返ると、蔵前橋通り(新妻恋坂)の対岸に神田明神の裏参道が見えた。
つづく。