前回のつづき。
路地エリアから本郷台地の端にある区立誠之(せいし)小学校の西側崖下に道を北へ。
小学校は平成30年から34年にかけて建て替え工事が行われるとのこと。
道沿いの土地が売り出し中になっていた。
その先に面白い遺構があった。
入れないようにはなっているが、崖上から下りる階段。
ブロックで塞がれているのでそのまま上るしかない、”トマソン物件”
その先は一旦道が細くなる。
崖上へ連絡する坂があった。
名前のある坂だった。
胸突坂(峰月坂・新道坂)西片2-15と白山1-24の間
「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ、坂道急峻なり、因って此名を得、左右石垣にて、苔滑か」と「新撰東京名所図会」にある。
台地の中腹から、本郷台地に上る坂、坂上から白山通りをへだてて、白山台を望む。「胸突坂」とは急な坂道の呼び名で区内に三ヶ所ある。
この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡で「誠之館(せいしかん)」と名づけた江戸の藩校があったところである。
東京都文京区教育委員会 平成元年11月
坂を上って振り返ったところ。
坂下に戻ってさらに北へ。
左手に現われた石段。
下りた先にはワイルドに育つ木があった。
さらに下って振り返ったところ。中央の地面に新しくコンクリ舗装された箇所があるが、「おれの細道 江戸東京狭隘路地探索」 黒田 涼 著を見ると、最近までそこに1m余りの木の幹が残っていたことがわかる。
もとの道に戻ってさらに北へ。
狭くて曲っていて先が見通せないところが細道散歩向き。
途中右手になかなかの傾斜の坂が。
坂上から。坂名表示板は見当たらなかった。
元に道に戻ってさらに北へ進むと、浄心寺坂に行き当たる。
説明板があった。
浄心寺坂
「小石川指ヶ谷(さすがや)町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ上る坂あり。浄心寺坂といふ」(新撰東京名所図会)
浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また、坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。
文京区教育委員会 平成19年3月
そこから坂上方向。
坂下へ向かうと円乗寺があった。
門前に「八百屋お七の墓」の説明板があった。
八百屋お七の墓 文京区白山1-34-6
お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の火災(天和2年・1682年12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。
文京区教育委員会 平成14年3月
そのすぐ後ろには、お七の地蔵堂。
こちらには区役所・観光協会の説明板があった。お七の物語は教育委員会のものと少し内容が異なっていた。
伊賀坂 白山2丁目28-29
白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。
伊賀者の同心衆の組屋敷があった(「御府内備考」)とか、真田伊賀守屋敷があった(「改撰江戸志」)という二つの説がある。
「東京名所図会」では真田伊賀守説をとっている。伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。
文京区教育委員会 平成9年3月このあたりは昭和39年8月1日施行の新住居表示によって白山の一部となるまでは「指ヶ谷町」と呼ばれていた。
その町名の由来について、丙戍書上(鳳閣寺支配正宝院)は「町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所指谷と述べている。しかし、「指ヶ谷」の名の起りについては不明である。
なお、旧指ヶ谷町の東北端に位置したこの南縁山円乗寺は元和6年(1620)宝仙法印によって開山された天台宗の寺院である。境内には芝居などで有名になった八百屋お七の墓がある。寺小姓の左兵衛という美少年と恋におちいったお七は、吉三郎なる無頼の徒にそそのかされて我家に放火した。放火は未遂に終ったが、すぐ吉三郎と共にとらえられ、天和3年(1683)3月29日火刑に処せられた。生年16であったと伝えられている。
文京区役所・文京区観光協会
お墓と本堂はその先になる。
三本建つ石碑の中央が、住職が建てたお七の墓。
六地蔵もあった。
境内は本郷台地の崖下になる。
つづく。