前回のつづき。
静岡浅間神社からは静岡駅の南東にある八幡山古墳を目指した。グーグルマップで知った場所。
この日の朝、谷津山古墳から良く見えた、島のような丘の上にある(再掲)
安倍街道の停留所からバスに乗って静岡駅まで出て南口へ向かい、歩くと18分と出たのでタクシーを利用。住宅街の中に急に山が現れた。
拝殿の後ろに急な石段が見える。
石段には立入禁止のロープがあったので、横の道を上る。
石段を上から見下ろしたところ。これはころげおちそう。
そこを振り返ると本殿。こちらに参拝した。
この本殿の左側に横穴式石室(八幡山2号墳・八幡神社古墳)が開口していたことを、後で「静岡県の遺跡・古墳・城跡ガイド」さんのサイトで知った。
墳丘をほとんどもたない古墳時代後期後半の横穴式石室墳で、明治22年の本殿新築時に発掘され須恵器、勾玉、丸玉などが出土。この地域を支配していた豪族、有度郡牛麻呂(うとべのうしまろ)の墓とする伝説があるそうだ。
http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/3717379.html
このときは2号墳の存在を知らず、山頂方向を目指して登った。
開けたところに出ると「八幡山城」の解説板があった。
八幡山城
応永18年(1411)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、周辺の要所要所に城塞を築いて駿府防衛の万全を期した。八幡山城もその一つである。
文明8年(1476)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ1.5km、北方愛宕山城へ2km、東方小鹿範満の館へ2km、西方安倍川を経て持舟(用宗)城まで5km、それらはすべて指呼の間に一望することのできる重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当っていた。長享元年(1487)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城(沼津)へ移った。永禄12年(1569)武田信玄の第二回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくここを使用した。天正10年(1582)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正18年(1590)関東へ移った後廃城となったと思われる。城址は標高63.7m、南北500mの独立丘陵で、近年公園となり、大きく変貌したが、今なお曲輪や空堀などの遺構を見ることができる。
昭和60年1月 静岡市
なだらかで広い山頂は公園になっている。この日はオリエンテーリング大会が行われていたようで、ゼッケンをつけて何かを探して走っている方が沢山いた。
「八幡山古墳」と地図に記された場所に到着。
斜面を登ってみる。
一番上には金網に囲まれた球形のタンクがあった。
来た方向を振り返って。
古墳跡を示す案内は現地にはなかった。
「静岡県の遺跡・古墳・城跡ガイド」さんのサイトによれば、八幡山1号墳(八幡山山頂古墳)は、古墳時代中期から後期前頃(5~6世紀前半)に築かれた直径約30m・高さ約2mの円墳または帆立貝式の前方後円墳。
八幡山には戦前まで、18基の古墳が残っていたといわれているそうだ。
http://blog.livedoor.jp/shizuokak/archives/1799182.html
中世に山城になったということは地形がかなり改変されたはずで、それ以前はもっと多くの古群で覆われた丘になっていたのでは。
墳丘前は今は広場になっていた。
南東側に大きく広がるのは日本平・有度山。
山の右手の向こう側に、新春ブラタモリで取り上げられた久能山東照宮がある。
東側。中央奥は愛鷹山。その左肩の富士山には雲がかかってしまった。
北側には目の前に谷津山が。
2本の鉄塔が谷津山古墳の目印になっている。後ろには竜爪山(1040m)
ズームするとここからも雪を被った南アルプスが見えた。
下山は、渡神社、三峰神社のある参道を通った。八幡大神の幟が賑やかだった。
下から再び山頂方向を。
静岡駅までの帰路は徒歩で。駅の近くに三連のパーキングタワーがあった。