墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

宝塚古墳 茨城県茨城町野曽

前々回のつづき。

水戸で藤森照信展を見た際に、周辺の古墳にも立ち寄った。

まずはカーナビにも出ている宝塚古墳へ。

北関東自動車道茨城町西ICを出てすぐの車でなら訪ねやすい所にある。 

 

「中央工業団地南」の交差点を右折すると、道沿いに古墳の標柱があった。

 

標柱の前に一台分ほどのスペースがあったので停めさせていただいて、道路脇の歩道を上った。

 

途中から土の道に。

 

柵の向こうに土盛りが現れた。

 

柵は古墳の周囲を巡っていて、しっかり管理されている。

 

後方部の麓に説明板があった。

 

宝塚古墳は前方後方墳。全長39.3mで4世紀末~5世紀初頭の築造。

町指定文化財 宝塚古墳
野曽台地の先端部にある宝塚古墳は、昭和60年5月に行われた発掘調査の結果、前方後方墳であることが判明した。全長39.3m、各部分の寸法は図の通り(後方部幅19.5m、前方部幅16.5m)であるが前方部は長方形であるのに対し、後方部はほぼ正方形に近い形をしている。また、古墳の周囲には、5~7mの溝が確認された。
県内では、宝塚古墳を含めて11の前方後方墳が報告されている。そのうち最も大きいのが玉造町の勅使塚古墳で全長が64m。逆に小さいのは、土浦市にある全長30mの田村舟塚2号墳である。宝塚古墳は中規模の古墳といえよう。
築造年代は、今から約1600年前の4世紀末から5世紀初めと考えられ、町内では一番古い古墳である。その後、大和政権の影響を受けた前田地内の上の山古墳(前方後円墳)や、木部地内の諏訪神社古墳群(円墳群)が6世紀に入って築造された。
確認された県内の前方後方墳の位置を見ると、それぞれの勢力圏は、15~20km四方に及んでいたと想像できる。宝塚古墳は、肥沃な涸沼川流域およびその周辺で生活していた人々の首長級の墳墓であったと考えられる。
茨城町教育委員会

 

前方後方墳は全国で約500基、前方後円墳(約4800基)の10分の1ほどの数しかない。

前方後方墳 - Wikipedia

 

後方部と前方部の接続部分は直線的。前方後円墳のようにくびれてはいない。

 

前方部の右下から。

 

前方部正面から。

 

上記の位置の背面。台地の先端にあって、樹木が茂っていなければ見晴らしのよい場所。

 

前方部の左下から。

 

同じ位置からパノラマで。

 

前方部に上がって後方部方向。

 

後方部に上がって、振り返った前方部方向。

 

後方部の右上の角。

 

後方部の墳頂中央にはサツキ(?)が植わっていた。

 

後方部の右上の角。柵の向こうはここへ来た道でその先は農地になっていた。

 

後方部上の端から前方部方向。

 

後方部と前方部の"接続部"を墳丘上から。

 

麓から見た"接続部"。