読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

子規庵(正岡子規旧宅) 東京都台東区根岸2丁目

常設展、企画展 建築物、公園、街道、坂道

前回のつづき。今回も11月に撮った写真。

台東区書道博物館中村不折記念館)の斜め向かいのブロック塀に囲まれた民家は、正岡子規が没するまでの8年を過ごした”子規庵”だった。

 

一見、何かの教室と間違えて見過ごしてしまいそう。

 

引き戸の門の脇の案内も控え目。そこがいい雰囲気になっている。

 

ブロック塀に掲げられた説明板。

東京都指定史跡 子規庵
所在地:台東区根岸2-5-11
指定:昭和35年4月1日
正岡子規(1867~1902)は俳人歌人・随筆家。幼名は升(のぼる)、本名は常規(つねのり)、別号を獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
著書には、俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」など多い。
子規はこの場所に明治27年(1894)2月から住み、同35年(1902)9月19日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
昭和20年(1945)戦災によって平屋造りの家屋は焼失したが、昭和25年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。
史跡に指定されている土地の面積は405.6㎡。
平成12年3月設置 東京都教育委員会

 

玄関を横から見たところ。

 

入庵料は高校生以上500円。夏季・冬季に休庵期間がある。

下記のサイトには「座って、横になって、子規の目線になれる唯一の史跡」とある。

子規庵について | 子規庵によれば、子規庵の建物は旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれ、子規は明治27年(1894)にこちらへ来て、松山から母と妹を呼び寄せ、病室兼書斎と句会歌会の場として友人や門弟らとともに俳句や短歌の革新に邁進したとのこと。

子規より1歳年上の中村不折が子規に出会ったのも明治27年。不折はその年、子規がいた新聞「日本」の記者となり、明治28年には二人とも日清戦争の従軍記者として中国に渡っている。

あまりにも有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 - Wikipedia」は従軍から帰ったその年の秋に詠まれている。

子規が亡くなったのはその7年後の明治35年(1902)、享年34歳。

 

子規庵の内部は撮影禁止だったが、庭では許されていた。板壁沿いに庭へ回る。

 

庭から見た子規庵。

 

絶筆三句を詠んだのは亡くなる前日の9月18日だったとのこと。

 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな
 痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず
 をとゝひの へちまの水も 取らざりき

 

へちまの奥が「終焉の間」

 

部屋側から見た庭。かつては上野の山も望めたそう。

 

正岡子規というと、数年前に放送されたドラマで香川照之を思い浮かべてしまった。

スペシャルドラマ坂の上の雲/NHK 松山放送局|坂の上の雲

今年2017年は正岡子規の生誕150周年とのこと。ここを訪れる人も増えるのではないか。

 

南側から見た子規庵。

ここから2017年1月の写真。

 

そのすぐ先に言問通り跨線橋があった。橋を渡ると寛永寺谷中霊園がある。

 

ちょうど常磐線の特急が通過した。

 

正岡子規の次の句を今回初めて知り、身近な人に感じた。

 千駄木に 隠れおほせぬ 冬の梅