墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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発掘された日本列島2016 弥生・古墳時代編 @江戸東京博物館

前回のつづき。

こちらは弥生時代の大型甕棺。

福岡県福岡市の岸田遺跡(弥生前期末~古墳中期:約2200~1600年前)の出土。

 

丘陵上に78基の墓が見つかり、弥生時代前期末~中期初頭の甕棺から剣や矛などの青銅器が数多く出土している。

 

これだけ大きな甕をつくるのは今でも大変なことだろう。

 

こちらも弥生時代の河原口坊中(かわらぐちぼうじゅう)遺跡。

弥生時代中期から後期(約2100年前~1750年前)を中心とした大規模な集落遺跡で、神奈川県の中心を流れる相模川左岸の自然堤防上に立地します。約500棟もの竪穴建物を発見し、神奈川県内で3例目となる小銅鐸が出土しました。

 

川跡の湿潤な場所だったので木製品などもよく残っている。

川の跡から出土した遺物には土器や石器のほかに、卜骨などの骨角器、板状鉄斧などの金属器、農具や漁労具、紡織具、建築部材などの木製品があります。これらの遺物は弥生時代のくらしぶりを考えるうえで重要なものです。

 

鍬や斧、鋤、臼、杵などの農具は2000年ほどを経た今でも、ほぼ同じ形をしているのではないか。

 

こちらは占いに用いた卜骨(ぼっこつ・鹿肩甲骨)

卜骨は弥生時代に中国大陸から日本列島に伝わった占いに利用された道具です。シカやイノシシの肩甲骨などが用いられ、焼けた棒を点状に押し付けて、色の変化やヒビの入り方などから、吉凶を判断しました。「魏志倭人伝」には「骨を灼いて卜し、以て吉凶を占う」との記述があります。

 

さて次は、いよいよ古墳時代。

 まずは、京都府の京都市・向日市・長岡京市・大山崎町にまたがる、国史跡・乙訓(おとくに)古墳群。

京都府南部の桂川右岸には、古墳時代約400年間を通じて古墳が築造されました。これらの古墳群を総称して乙訓古墳群と呼んでいます。かつては37基以上の前方後円墳をはじめとする大型古墳があったことが知られており、現在11基が史跡に指定されています。

 

古墳時代前期には五塚原古墳をはじめ寺戸大塚古墳など100m前後の大型の前方後円(方)墳が継続して造られます。古墳時代中期になると、古墳群中最大となる墳長約120mの前方後円墳である恵解山古墳が築造されました。

古墳時代後期や終末期には豊富な副葬品が出土した物集女車塚古墳や、巨石を用いた大型横穴式石室をもつ今里大塚古墳が築造されます。古墳時代を通じて古墳の規模の変化や古墳が造られる地区が変わっていく様子が明らかとなっており、古墳時代の政治的な展開を物語っています。

 

恵解山(いげのやま)古墳の水鳥形埴輪、円筒埴輪、家形埴輪。

 

見学の女子高生達が「○○にそっくり!」 と言い合っていた。

 

こちらは屋根が立派な家形埴輪。

 

寺戸大塚古墳の朝顔形埴輪。

 

壁には恵解山古墳の武器埋納施設の復原図が描かれていた。

 

こちらは広島県の国史跡・甲立(こうたち)古墳。

平成20年に広島県中央北部の菊山山腹に位置する新たな前方後円墳が発見されました。墳長は77.5m、前方部は2段・後円部は3段に造られ、墳丘斜面に葺石と墳丘平坦面に埴輪を持つ、古墳時代前期の古墳です。

 

後円部の墳頂では、外縁部に幅約1mにわたって石が敷かれ、さらにその内側には埴輪列が円形に配置されていました。後円部の中心には埋葬施設があり、電気探査の結果、竪穴式石室か礫槨である可能性が想定されています。

後円部墳頂部の南東部分には長さ約6.2m、幅約3.0mにわたる石敷区画があり、その中心には5点の家形埴輪が一列に並んでいました。ほかにもさまざまな形象埴輪が出土しており、大和政権との関係や埴輪祭祀を考える上で重要な成果が得られました。

 

 後円部墳長部に並んでいた家形埴輪の欠片。

 

こちらの大きな家形埴輪は開口部が大きい2階建て?

平成20年にもなってこのような発見があるとは。まだまだ土の中には人知れず眠ったままになっているものがある?

 

展示はさらに、中世、近世へと続いていた。