横須賀軍港クルーズの乗船前に近くの三笠公園にある展示施設、戦艦三笠を見学した。
明治35年(1902)に英国ヴィッカース社の造船所で建造された「敷島型」の四番艦で、日露戦争で東郷平八郎司令長官が乗艦する連合艦隊旗艦として活躍し、バルチック艦隊を打ち破った。
三笠公園にて、船尾方向から。
全長131.7m、全幅23.2m、排水量15,140トン、乗員860名、最大速力18ノット
前に見た重要文化財・明治丸はその27年前の竣工の鉄製汽船で、全長68.6m、全幅9.1m、排水量1027トン、最大速力11.5ノットの灯台巡視船だった。
重要文化財・明治丸の公開 @東京海洋大学 東京都江東区越中島
どちらも当時の”最優秀船”
戦艦三笠は、かつて親戚の家が横須賀にあったので40年くらい前にも見学したはずだがあまり覚えておらず、艦名が奈良の三笠山(先日その山頂の鶯塚古墳に行ったばかり)にちなむことは今回初めて知った。
一般600円で小中学生は無料。30分と60分の見学コースがあったが、時間に余裕がなかったので、急ぎ足でぐるっと見て回った。
階段を上がって甲板にあがると後部主砲塔の前に出る。
以下は三笠 (戦艦) - Wikipediaから。
日露戦争直後の1905年(明治38年)9月に、佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故で沈没し339名の死者を出した。その後修理され1908年に現役復帰、1914年からの第一次世界大戦初期には日本海などで警備活動に従事し、1918年からのシベリア出兵支援にも参加したが、1922年のワシントン軍縮条約によって廃艦が決定、1923年の関東大震災で岸壁に衝突・浸水し帝国海軍から除籍となった。
1925年1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定され年内に工事完了、第二次世界大戦中もそのまま保存艦として置かれ続けたが、横須賀港が空襲や機銃掃射を受けても被害を受けなかった。
戦後は米軍の娯楽施設となったり水族館が設置されたりしたが、保存運動により復元工事が行われ1961年に完了した。現在の砲塔、煙突、マストなどは戦後に作成されたレプリカで、主砲はコンクリート製だそう。
・記念艦「三笠」|戦後の荒廃時の写真。
埋め立て保存されてからの歴史が90年以上あるということに驚いた。
甲板上にある通信室には人形もいた。
日本海海戦時の1904年5月27日早朝、対馬西方海域を哨戒していた「信濃丸」が発信したバルチック艦隊発見の「敵艦隊見ュ」の第一報は、この電信室の無線機で受信された。
巨大な煙突。円筒埴輪どころではない迫力。
前方の艦橋に上がると砲室が復元されていた。
艦橋の右端。その先に見えるのは猿島。
操舵室。今でも使えそうに復元されている。
前を向く主砲。
砲身の前から。マストに掲げられているのはZ旗。
Z旗の解説板は大きかった。
横から。かつてはこの全体が回転したのだろうか。
主砲の下は映画館になっている。
艦内の資料室にあった三笠の模型。
1987年まで船首にあったオリジナルの菊花紋章。
士官室。
司令長官公室。木製調度品と機銃との組み合わせが生々しかった。
風呂とトイレ。英国製の香りを感じる。
長官の寝台。
長官室。
音楽隊室の展示。
船尾側の風景。マンションが建て込んでいた。
公園側の左舷。
船首側から。
公式サイトには世界の「三大記念艦」とあった
こちらの国立公文書館のサイトにも詳しい記録がある。
公園には東郷平八郎の銅像も。
お住まいの跡(公園)は千代田区三番町にある。
東郷元帥記念公園 九段小学校 東京都千代田区三番町 - 墳丘からの眺め
隣の横須賀学院の桜は満開だった。