前回のつづき。
茅原大墓古墳からホケノ山古墳は直線距離では400mほどだが、歩行距離は住宅地の中をいくつも曲ってその倍程か。道の脇の畑に綺麗に花が植わっていた。
梅と箸墓が見える場所に戻る。木全体に陽が当たる時間になっていた。
国津神社の前で巻向川を渡る。ここより左(北)が纏向遺跡・纏向古墳群になる。
左へ折れて小道を上っていくと道の脇に石が葺かれていた。
右手に墳丘。小道は前方後円墳の前方部(復元)を斜めに横切っていた。
前方部あたりから。
前方部右上あたりから、もと来た道を振り返って。
前方部の先に駐車場があり、そこに説明板があった。
樹木の陰で斜めになった。
ホケノ山古墳
この古墳はホケノ山古墳と呼ばれる3世紀後半に造られた日本で最も古い部類に属する前方後円墳の一つです。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纏向遺跡の南東端に位置します。
また、古墳からは以前に画文帯神獣鏡と内行花文鏡が出土したとの伝承がありますが、その実態は良く解っていません。平成7年以降、古墳の史跡整備に先立って二次に亙る発掘調査が行われ、さまざまな事柄が解っています。
合計12本設定された調査区の中では周濠や葺石・周辺埋葬に伴う木棺の跡・沢山の土器片が出土しました。
周濠は第一次調査の第一トレンチでは幅17.5mで、最も狭い所では第二次調査の第二トレンチの幅10.5mと、西側に行くほど幅が広くなっています。
葺石は墳丘側の総ての調査区において確認されています。葺石の構造は地山を削り出しによって整形した後、二層の裏込め土を盛った上に、付近から採取できる河原石を小型・中型・大型の順で葺いています。ただし、前方部側面は墳丘の傾斜が30度前後と、後円部の40~50度という急傾斜に対して極端に緩やかにつくられていました。
また、周濠や墳丘は前方部前面が旧巻向川によって削平されており、本来の規模や形状などははっきりとしませんが、全長は85m前後と考えています。今回復元している前方部については調査において確認された地山の削り出しに、本来あったはずの裏込め土や葺石を括れ部のデーターと基にして復元したものです。桜井市教育委員会
実測図をみると、前方部が短い可愛い形。
前方部に埋葬施設が復元されていた。
少し引いた位置から。
埋葬施設に関する説明板。後円部ではなく、前方部の東斜面で見つかった。
前方部東斜面検出の埋葬施設
ここに復元しているのは第二次調査において確認された埋葬施設です。墓壙の規模は全長4.2m、幅1.2m残存する深さは30~50cmになります。
墓壙内には南端に大型複合口縁壺が、中央には底部を穿孔した広口壺が共伴し、これに挟まれるように全長2.15m、幅45cm、現存する深さ15cmの組み合わせ式木棺の痕跡が確認できました。
また、木棺内部の南側からは40×45cmの範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壺・底部に穿孔のある広口壺を供献した埋葬施設である事が確認されました。
この埋葬施設の葺石をはずして、裏込め土から地山まで掘り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えています。また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。
これらの土器は、概ね3世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代を大きく矛盾することはないと考えています。桜井教育委員会
前方部先端から見上げる後円部。中央看板はまむし注意。
墳丘を愛でられる東屋もあった。
梅が真っ盛り。
こちらにも説明板があり、纏向古墳群全体との関連を解説していた。
ホケノ山古墳と纏向古墳群
ホケノ山古墳の周囲には纏向遺跡がひろがっています。纏向遺跡は東西約2km、南北約1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは北部九州の諸遺跡群に対する邪馬台国、東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。この遺跡は3世紀初めに出現し、およそ150年後の4世紀中頃には消滅してしまいます。
遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纏向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳の6基の古式の前方後円墳があります。これらの古墳は、その築造時期がいずれも3世紀に遡るものと考えられており、前方後円墳で構成された日本最古の古墳群と言えるでしょう。桜井市教育委員会
周囲をひととおり見て、墳丘へ上がらせていただいた。
葺石の周囲の苔が見事だった。
墳丘の先には箸墓古墳。
墳頂は広かった。
ホケノ山古墳墳丘からの箸墓古墳。その手前の植え込みのような盛り上がりも古墳だった。(堂ノ後古墳)
墳丘でのパノラマ。西方向。
後円部東側から見た前方部(前方部右サイド)
墳丘には小さな畑もあった。
東方向の東屋。梅に囲まれている。
前方部左サイド。写真中央でくびれている。
検索していたら、橿原考古学研究所附属博物館の総括学芸員・岡林孝作氏のコメントに出会った。下記は最後の部分。
最古の古墳が築造された時から、古墳時代は始まる。箸墓古墳は最古の巨大前方後円墳であるが、最古の古墳ではない、と私は理解している。箸墓古墳の巨大性を重視して、古墳時代の始まりを箸墓古墳の造営に求める人は今も多い。しかし、ホケノ山古墳が造営されたころには、すでに古墳時代は始まっており、その前史もまた、纒向の地に確かに刻まれていたと思うのである。
桜井市ホケノ山古墳第4次調査 現地説明会資料2004/4もWEB上にあった。下記はその一部。
出土した二重口縁壺は土器の編年上、庄内式と呼ばれるものです。画文帯神獣鏡は後漢末の製作とみられます。埋葬施設に使用された石材には、箸墓古墳をはじめ、周辺の前期古墳に普遍的に使用されている二上山周辺産の板石がまだ含まれていません。木槨を採用した特殊な埋葬施設の構造など総合して考えると、この古墳の築造年代は箸墓古墳よりさらに古く、3世紀中葉と判断されます。内容的には、定型的な古墳時代前期の前方後円墳とまったく共通する点、あるいはつながっていく点が多い反面、弥生時代の大型墳墓に類例が求められる要素もみられることが注目されます。ホケノ山古墳は、同時期の他のどの地域の墳丘よりも大きな墳丘、大規模で複雑な構造の埋葬施設をもち、副葬品も質・量ともに豊富です。今回の調査で得られた成果は、古墳時代の開始にかかわるさまざまな問題を考える上で、きわめて重要な意味をもつものといえるでしょう。
サイズは箸墓古墳の3分の1以下だが、築造時期は箸墓より古い、つまり古墳時代前の大変貴重な”古墳”だった。
つづく。